――波留さんが、私の家まで来るって言ってる。
 ミナモはそれを悟ると、瞬時に自宅の現状を脳裏に浮かべていた。
 あの7月以来、蒼井家の自宅の管理はミナモに任されている。
 それまで家事を担ってきたソウタは電理研統括部長代理職に就任してしまい、多忙である。そんな彼とて時折帰宅し、昔のようにミナモに食事を作って共に食する日も確かに存在するのだが、それはあくまでも今の彼にとっては「息抜き」程度の事だった。以前のように常態化はしていない。
 父である蒼井衛は平職員に降格されたにせよ相変わらず「部下」達に愛される仕事人間である。結果、殆ど家に寄り付かない。世界中の海を巡る母に至っては人工島にすら滞在していない。
 彼らに家族としての愛情が欠如している訳ではない。それは、数年振りに顔を合わせた際に良く判る。全員が家の外の誰かに必要とされている以上、これが蒼井家の家族の形なのだろう。ミナモはそれを受け容れていた。
 更に最近では、当のミナモも介助士を進路と定め、その実習や座学に明け暮れていた。その合間を縫って電理研の兄や父に差し入れを持っていく日々を続けている。
 時間とは有限の概念である。そのため、多忙な人間は必ず何処かからリソースを割り当てなくてはならない。
 そうやって作業の優先順位を彼女なりにつけた結果、最下位に来てしまうのが自宅の掃除となってしまっていた。何せ彼女自身以外の誰も、その自宅を滅多に訪れないのだ。結果、そこはあまり誉められた状態ではない。無論適度に片付けてはいるつもりだが、それでも細かな箇所の掃除などはもう月単位で行っていないのが実状である。
 ――そんな所に他人を迎えると思うと、ミナモは肝が冷える心地がする。
 特にその相手は、今までこの自宅に足を踏み入れた事がない。更には彼は、ミナモにとっては特別な相手なのだから――。
 ミナモがふと気付いた頃には、波留は不思議そうな顔をしていた。その表情のまま、ミナモをじっと見ている。
 やがて、青年は苦笑めいた微笑みを浮かべる。微笑む目元が何処か戸惑うような印象を帯びた。そして、彼は若干躊躇いがちに口を開いた。
「――…いえ。僕はそんな不躾な事は…」
「…え?」
 途中で切れた波留の台詞に、ミナモは怪訝そうな声を上げる。どうも、言い難そうな印象を受けたからだった。
 ミナモのその声に促されるように、波留は言葉を続ける。照れ臭そうに僅かに視線を落とし、苦笑気味である。
「僕はミナモさんをあくまでも御自宅までお送りしたいだけで、上がらせて頂こうとは全く思っていなかったのですが…」
「………あ」
 途端、ミナモの口から蚊細い声が漏れた。お互いの認識の違いを悟ったのだ。
 波留は、彼自身が述べたように、あくまでもミナモを自宅まで送り届けたいだけだった。別にそのまま自宅訪問まで敢行しようとは露も思っていなかった。
 波留の真意はそうだと言うのに、ミナモはそう勘違いして独り空回りしてしまっていた。勝手にその情景を想定して勝手に慌てただけだったのだ。
 その先走りにミナモは気付く。瞬間、恥ずかしく思い、一気に顔が赤に染まる。俯いた彼女が自身の頬を両手で押さえると、実際に体温の高さが伝わってきた。
「――…ミナモさん?」
 少しばかり微笑みを含んだ声が、ミナモの頭上から振ってくる。その青年に晒した頭頂部からは湯気でも上がっているのではなかろうかと、彼女は危惧を覚えた。
 やがてミナモは、両手を胸の前で握り締める。拳を作り、勢い良くがばりと顔を上げた。真っ赤な顔を波留に向ける。
「――送って頂いた以上、お茶でも出さないと気が済まないって思ったんです!」
 思わず声を荒げてしまうが、それは八つ当たりだとミナモ自身良く判っていた。自分が勝手に勘違いしただけなのだから。その声に軽く顎を引いている波留を見ると、彼女はますますそう感じてしまう。
 取り繕うための言い訳である。確かに台詞は必ずしも嘘とは言い切れない。送って貰ってそれで終わりとは、礼儀に反するとも思うからだ。しかし「送って貰う」場所の前提が違っていた以上、やはりこの台詞は言い訳だった。
 不意に、少女が見上げる波留の口元から短い笑いが漏れた。私の事が微笑ましいとでも思ったのだろうか。ミナモはそう捉えた。
 「――…そう言えば僕、ミナモさんの御自宅って、結局存じ上げていないままでしたね」
 短い沈黙の後、波留はそんな事を言った。
 それにミナモは目を瞬かせる。彼女が全く思い至っていない指摘だった。
 ――考えてみれば、波留は今までミナモの自宅に来た事がない。単なる知り合いではなくそこそこ深い付き合いを重ねているのに、意外な話ではあった。ともかく訪問した事がない場所については、その住所を知らなくてもおかしくはない。
 彼が老人であり事務所を構えていた頃、メタルダイバーのバディとして登録した時に情報として教えていなかったっけ――ミナモは考えた。が、その事務手続きは結局ホロンやソウタに任せていたと思い直す。
 そして事務所の主だった波留は、その登録情報を閲覧しなかったのかもしれない。雇用主は必ずしも部下の自宅を知る必要はないのだから。登録されているからと言ってそれを必要としない状況で閲覧したならば、それはプライバシーの侵害にもなり得るのだ。
「なら、やはり僕は不躾だったかもしれませんね。これはあなたのプライベートに踏み込む行為ですから」
「…いえ、そんな」
 顔を下げて覗き込んでくる波留の優しい声に、ミナモは恥ずかしさから頭が冷えてきた。
 彼女は、自分の言い分を上手く解釈されたと思った。全てはミナモの勘違いに過ぎなかったのに、波留はそこに新たな可能性を付与した。それを根拠にして、ミナモを傷付けないように振る舞ってくれているのだろう。
 大体、教えて貰ってもいなかった波留の自宅をミナモは知っている。それも、彼が人工島を離れていた隙に割り出したのだ。
 確かにその行為はホロンや彼女に指示を出したソウタがやった事である。そしてそのプライバシー侵害に当たる行為をしなければならない状況に陥らせたそもそものきっかけは、波留自身の失踪である。やむを得ない事態だった。
 しかしミナモはホロンの調査に付き合っただけである。自分では何もしていないのに、波留の個人情報だけを掠め取った格好になってしまっていた。
 そんな負い目があるのに、ここまで気を遣ってくれるなんて。
 やっぱり波留さんは大人で、私は子供だ――。
 少女がそんな思いに至った瞬間だった。
 不意に、この旧メインストリートに立ち並ぶ街灯が明滅した。反射的にミナモは顔を上げ、その光景を見やる。
 それは一瞬の事であり、すぐに灯りは戻る。明滅の後は煌々と通りを照らし続けていた。
 だから通りでも気付かなかった人も多いし、僅かに目を奪われた人もすぐに興味を失い自らの行動に戻る。電灯の一瞬の明滅は必ずしも機械的なトラブルと呼べない代物であるからだ。それが継続しない以上、保守業者や電理研に報告が上がる事もない。
 周辺の人々が歩いてゆく中、ミナモは未だに街灯を見上げていた。白色の灯りが暗くなりつつある空をぼんやりと照らしている光景は、今までと変化していない。
 ふと隣を見ると、波留も同様の行動を保っていた。彼もまたミナモ同様に街灯に視線を固定している。少女と僅かに異なっているのは、彼は微かに眉を寄せている事だった。
「――…波留さん、どうかしました?」
「…いえ…少し電脳に負荷が掛かった気がして」
 問い掛けられた波留は、眉を寄せたままミナモに視線を移す。そう言われたミナモは周辺を見渡してみるが、道行く人やバス停の待ち人達は平然としている。
 仮に彼らにも波留同様に負荷が掛かったにせよ、それも一瞬の事だったのだろう。それならばメタルへの瞬間的なトラフィック増加に拠るものと考えられ、たまに発生する事態だった。これもまた継続的に発生しない限り、電理研へのクレームにはなり得ない。街灯の明滅とも同様だった。
「頭、痛いんですか?」
「いいえ、一瞬でしたので大丈夫です」
 心配げに訊いてくるミナモに、波留は微笑み答えていた。少女を安心させようとしている様子である。
 しかしすぐに首を巡らせて、周辺を見る。彼としては、やはり何かが気になっているようだった。
「あの…波留さん」
 そんな波留をミナモは見上げ、名を呼ぶ。何かを言い掛けた。しかし、彼女の中では言葉が上手く見つからない。だから口篭もる。
「…何か…似てる気がして」
 躊躇うようにミナモはそんな事を言った。視線を別の方向へと向ける。
 そこは通りに面している海側である。太陽が陰り月と星がそれに取って代わった時間帯となり、波間にそれらの灯りが煌めいている。海の向こうには光の点がいくつか見える。アイランドへの最終便フェリーや、その他の船舶が往来していると思われた。
 至って普通の夜の海の光景である。しかしミナモは今、敢えてそれを見ていた。彼女の中では、連想された事があるからだった。
「――…ええ。海には異変は見られないようですね。現在のメタルにも、明らかな変調はありません」
 波留の静かな声が、海を見つめているミナモの聴覚に届く。それに、ミナモは顔を上げた。
「やっぱり、波留さんも、そう思ったんですか?」
「ええ」
 目的語を廃した台詞に、波留は頷いた。彼もまた簡潔に答えたのみである。しかし、互いに何を指し示しているのかは、大体見当がついていた。
 波留の表情からは既に微笑みの気配はない。真面目な表情でその日常の風景を見ていた。
 ミナモは躊躇う。口を噤み、言うべきかどうか迷った。しかし、結局彼女は口にする。
「…あの時みたいに、海が燃えたのかと思いました」
「そうですね…――」
 少女と並ぶ青年は、同じ光景を見据えながら静かに頷く。彼らが見ているものは、穏やかな海だった。
 
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