――以上のような経緯が1週間前に存在している。その全てを、波留はミナモに話した訳ではない。彼とソウタの間には守秘義務というものが厳然と存在している。契約である以上、たとえその3人が親しい間柄にあったにせよ、絶対に守られなくてはならない。 また、関係ないミナモが余計な事を知っては厄介事に巻き込まれる可能性も出てくるだろう。 実際に波留自身、ジェニー・円から得たその成果に一切の目を通していない。執念とも妄執とも表現出来る直情から中国大陸に渡ってまで入手した情報だと言うのに、彼はそれをあっさりと電理研に引き渡してしまった。 そして彼はその事実をソウタにアピールしている。自分はこれ以上何も知らないと示したのだ。 ソウタは波留の真意を理解した。更にソウタ自身も「ファイルの中身を見ない」素振りを見せた。この統括部長代理も、これ以上深入りしないと表明したのだ。 全ては調査部に任せる――波留とソウタは口に出さなくとも、今回の事件についてはそれで終わらせる事とした。たとえ、彼らが「久島永一朗」と言う人物に対して、凄まじいまでも思い入れを抱いていたにせよ。 業務に邁進し過ぎた調査員と、その調査の依頼をした上司とが、その結論に至ったのである。事件に半ば巻き込まれてしまったとは言え一般人の少女に過剰な説明を与える事は好ましくない。 一方の少女の方も、波留達の決断に理解を示している。 彼女は結局の所「一般人の少女」とは言い切れない部分がある。何せ彼女は元々波留のバディの任に就いた経験があり、その後にも15歳の若さで電理研経由で依頼を受けた経験もあるのだから。更に、彼女自身も別件で良かれと思ってやり過ぎた事件がある。 だから、ミナモにも「守秘義務」の重要性が身に沁みて判っている。彼女は確かに少女らしい好奇心は抱えているが、波留達が望まない以上は突っ込んだ話題には足を踏み入れて来なかった。 そのため、今回、この一件に関してふたりが交わした会話は当たり障りない箇所を掠めるのみである。ミナモはとりあえず、波留が発したその単語を捕まえた。 「――謹慎、ですか?」 それは、あまり良さそうな印象を受けない単語である。自然、ミナモの表情は曇っていた。しかし波留がその厳しい現状を甘受しなければならないような事をしでかしたとも、彼女は知っていた。 「勿論、直接そう言われた訳ではありませんが、結果的にはそんな状況です」 波留は穏やかに答える。内容量が少なくなったパフェを前に、若干手持ち無沙汰に長いスプーンに指を絡ませた。 「僕が戻ってから1週間にもなりますが、電理研からはメタルダイバーとしての仕事を回して貰っていません」 黒髪の青年は事実のみを述べた。相変わらず静かな印象を湛えている。 しかしミナモはその言葉に、眉を寄せた。つまりは「電理研から干された」と表現出来る現状だと理解したからだ。 今までの波留は、世界レベルのメタルダイバーとして電理研に重用されてきていた。危険なレベルに達する依頼も多いのだから、あまり無理をさせないで欲しくはあった。それでも彼に引っ切り無しに依頼が回ってくるのは、久島が統括部長職に就いていた頃からの伝統だった。 それが今では、1週間も音沙汰がないらしい。 確かにメタルダイブとは危険な仕事である。意識と脳を危険に晒す業務のため、連日やるべきではない。 しかし、圧倒的にメタルダイバーの人数が需要に足りていない現状において、波留を敢えて前線から外す理由は唯一だろう。脳を休めるためにメタルに潜らずとも、他のダイバー達を統括し指示を出す案件も今までの彼はたまにこなしていた。それすら寄越さないのだから、電理研の意図は明白だった。 そもそも今回の波留の失踪の事実は、統括部長代理たるソウタの前で止めていた。彼の失踪と帰還については、内密に処理したはずである。身内たる電理研や評議会に漏れないよう、細心の注意を図ったはずだった。 しかし調査部に移管された情報などから、何らかの事情を類推した人間も居るのだろう。或いは、発覚を恐れておくに越した事はないのだろう。 一方でソウタも、波留への新たな依頼を自重しているのかもしれない。役職に就けてもいないメタルダイバーに過剰な権力を与えていると勘繰る事が可能な今までの状況から、一線を引こうとしているのかもしれない。 だが、そもそもメタルダイブとは危険な仕事である。大きな案件を処理した有力ダイバーにしばしの休暇を与えていると考えれば、現状の波留にも納得は出来るのだ。波留は電理研から明確に「出入り禁止」を言い渡されてはいないのだから、いくらでも深読みは可能な事態だった。良い方にも悪い方にも解釈が出来る。 「――まあ、お陰様でドリームブラザーズの業務に専念出来ていますので、僕としてはそこまで厭な状況でもないと言うか…結果的に懲罰になっていないのだから、申し訳のない事です」 波留は、特に気にしていないような口振りで語った。彼はこの現状を何処か好意的に受け容れているようだった。解釈を戦わせる以前に、結果的に好ましい現状だと感じているらしい。 「じゃあ…波留さん的には、いいんですか?」 ミナモは僅かに躊躇った後、そう訊いた。 本当に電理研に干されてメタルダイバーとしての地位を実質的に失ったにせよ、波留の本分は「海」にある。身体的に不自由だった老人の頃ならいざ知らず、今の健康な青年である彼にはリアルの海も充分に楽しめる。 ならばこれを機会にリアルの海に専念するのもいいのかもしれなかった。そうなれば波留自身が言うように全く懲罰になっておらず、この処分を下した電理研としてはいい面の皮ではあるが。 「…どうなんでしょうね。僕にも良く判りません」 ミナモからの問いに、波留は多少の沈黙の後に苦笑いを伴い答えた。 彼としては、リアルの海に潜っていれば幸せではある。一般領域に限れば、メタルの海にも個人的に潜る事が可能である。何も電理研からの依頼を介する必要はない。 しかし、ソウタに迷惑をかけて、その上で電理研から干された――その現実のみを考慮すれば、あまり好ましい事態ではない。 「――ドリームブラザーズで働いてるなら、今日は日曜なのに良かったんですか?」 そこをミナモは疑問に思い、訊いた。 8月以降、波留はそのダイビングショップにて働いてきていた。メタルダイバーに復帰後のショップでの非常勤時代においても、予約客が入り易い日曜だけは店に入るようにしていた。なのに、連日働いている今は、その稼ぎ時の日曜を外してミナモに付き合ってくれている。 しかも、今日の買い物の誘いは波留から言い出した事だった。――お忙しいでしょうが、息抜きは如何でしょうか?僕もあなたに色々とお詫びしたいので、何かでお返ししたいんです――そんなメールを数日前に寄越してきたのである。 ミナモは誘いにまごつきつつもその誘いに乗ったのだが、当日にこの波留の現状を訊かされるとその疑問が沸いてきている。自分の仕事を放って、この人は一体何をしているのだろう――。 問われた波留は軽く首を傾げた。不思議そうな表情を浮かべる。そして、何気ない口調で答えた。 「だって、ミナモさんは日曜しかお暇じゃないでしょう?暇な僕が予定を合わせるのは当然です」 「…えっと」 ミナモは口篭もる。若干、頬が赤く染まってきた。 確かに波留の気遣いは正しい。ミナモは介助職を志す中学3年生であり、9月の2学期以降は次の進路へ向けて実習や座学で多忙な日々を過ごしていた。常時無線接続のメタルの普及で詰め込み型教育は意味を成さなくなって来ているが、学生が暇になった訳ではない。学生に対しては柔軟な応用力が試される世の中に変質しただけだった。 しかし、波留に気を遣われて誘われた事実が判明し、それを自然に語られるとミナモは気恥ずかしさを覚えてしまう。――そもそも波留さん、日曜は「暇」じゃないんじゃないのかなあ…なのに私を優先してくれたのかなあ…少女の中でそんな考えがぐるぐると回る。 赤くなっている自覚を感じて俯くと、短いスカートに覆われた太腿が目に入る。膝の上で両手を揃え、握り締めた。 そこに、声が届いた。今まで会話を続けてきていた向かい側からではなく、店内の別の方角からである。 「――…あれ、ニャモ?」 耳馴染みの少女の声であり、その呼び名を使ってくる人間をミナモは独りしか知らない。弾かれたように顔を上げ、声のする方を見た。 そこには茶色のショートカットの背の高い少女が立っていた。そして隣には若干背の低い見事な黒髪の少女が並んでいる。ふたりで狭い通路を並んで歩いて来ていて、ふとミナモ達の席に気付いたらしかった。 「――サヤカ!ユキノちゃんも!」 ミナモは高い声で彼女らの名を呼んでいた。 この3人は友人関係で、このアンティーク・ガルの常連同士だった。放課後だけではなく休日もここに集う日も多いのだから、誘った訳でなくとも集まってしまう休日があってもおかしくはない。 ミナモもそれは判っているのだが、その声には何処か慌てたような響きがある。 「――これはお久し振りです。サヤカさんにユキノさん」 その頃には、ミナモの向かいに座っていた青年がそんな事を言っていた。彼は礼儀正しく席を立ち、そのふたりの少女に頭を下げる。 「あ、波留さん。こちらこそ」 結ばれた長髪が目の前で下がるのを見て、サヤカは慌ててぺこりと一礼した。一介の女子中学生に過ぎない自分に対してこんな態度を取ってくる大人など、彼女の世界には居ない。だから、少しばかり慌ててしまう。 「波留さん、こんにちわ。――そのパフェ美味しかったですか?」 サヤカの隣から長閑な声がした。可憐とも表現出来る高い声色を用いつつも、その少女はテーブル上の大きめの容器を覗き込んでいた。 その指摘に、サヤカは気付いたようにその容器を眺める。そして、にやりと笑った。指差しつつ、言葉でも指摘する。 「あー…それ、所謂カップル用ってのじゃないですか。ふたりで食べたんだー」 途端、ミナモが再び俯いた。顔の赤さは先程よりも増してゆく。一方の波留は、きょとんとする。ちらりと容器を見下ろした。ほぼ完食状態でクリームなどの跡が表面に付着しているガラス面を見やる。 「――…そうなの?私ならこれ位なら独りで食べるから違うんじゃない?」 「…はいはい」 そこに割り込んできた相変わらず長閑なユキノの言葉に、サヤカは引き笑いで答えていた。――あんたと常人を一緒にするなと言いたげな態度だった。 |