2061年11月8日。波留は人知れず姿を消し、そして紆余曲折を経て人工島へと帰還した。その間、1週間を不在としている。
 その15日深夜、帰還してきた波留は人工島国際空港にてミナモや兄のソウタやアンドロイドのホロンに出迎えられている。波留は人工島への航空便に搭乗する寸前、メールを送信して彼らに帰還予定を告げていた。今まで連絡を一切断っていた彼からの、唐突なメールである。それを受け取った彼らは例外なく空港に集った。波留の到着を心待ちにしていたのだった。
 無論、彼らの波留への心境は単純なものとは言い難かった。単に心配を掛けられただけではなく、実害を蒙りそうになった立場の人間も居たからである。
 ともかく、彼らに何の断りもなく、請け負っていた仕事を放り出し、波留は失踪した。客観的に見て大失態と断じるべきその行為については、その場で波留は一応の謝罪はしている。しかし、それ以上の事はこの時点ではやっていない。
 波留は大陸での長旅で肉体的にも精神的にも疲れきっていた。強靭な肉体と精神を併せ持つ彼とて限界はあり、心身ともに休息を求めていた。とりあえずはそれを解消しない事にはまともに行動出来ないだろうと、彼は自己判断を下したからである。
 そして彼を咎めるべき立場のソウタも同様の考えに至っていたらしい。電理研統括部長代理として失踪者から事情説明を求めるべき立場にある若き青年は、その当事者の一旦の帰宅を許可していた。
 波留も譲歩をありがたく承諾した。彼は挨拶もそこそこに無人タクシーに飛び乗り自宅へのルートを取らせた。そして到着後、片付き冷たいベッドへとそのまま雪崩込んだのである。
 それが16日深夜の話だった。日が変わり暫く経った頃に、彼は慣れ親しんだ床に就いた事になる。そして彼が再び目覚めたのは、時計の短針が1周しそうになる頃だった。
 波留は深夜に帰宅すると同時に、荷物を放り出し髪も解かず着の身着のままでベッドに飛び込んでいた。その彼がようやく目覚めての次の行動とは、バスタブに張ったお湯に全身を浸した事である。水不足の旅先では、彼はまともに風呂に入れていない。そのために髪も身体も洗えない日々が続いていた。ほぼ1週間振りに彼はようやく身体を解せた事になる。
 もっとも、彼が風呂に入ったのは、何もリラックスするためだけではない。これから成さねばならない事を前にして、身支度を整える意味合いも大きかった。
 一方的に不義理を働いた人物に謝罪するにあたっては、まともな格好で出向かなければならない。汚い格好のまま向かっては礼儀に反するのだから。
 かくして波留は11月16日の昼下がりには、電理研の部長オフィスへと出頭していた。
 彼を出迎えた蒼井ソウタは、まず相手のその姿に驚く羽目になる。やってきた波留はいつもとは違い、折り目正しく紺色のスーツを身に纏っていた。その首許にはネクタイをきっちりと締めてさえいた。
 後ろに纏めた長い髪は相変わらずではあったが、それでも今日の波留は普段とは全く別の印象を醸し出していた。確かにスーツの類も揃えていたとは部長代理の記憶にもあったが、それは波留が老人であった頃の印象だった。
 ――波留さんでもこんな堅い格好をするのか――と、結果的にソウタは若干失礼な感想を抱いてしまっていた。その姿は、まるで彼にとっての「先生」と同様の印象を受けてしまう。
 そんな彼の心境をよそに、波留はデスクの前でまず今回の失踪について改めて謝罪した。そしてその失踪を決断した彼なりの理由についても、包み隠さず告白する。――曰く、波留自らが復元を試みたレッドの記憶に人名を発見し、それに基いてジェニー・円の秘書とコンタクトを取る事に成功し、その伝を頼って中国大陸へと向かったのだと。
 ソウタも、波留が復元したレッドの記憶内の人名までは把握していた。それらのデータは波留がメタル領域に確保していた「オフィス」に遺していたからである。だから厳密に言えば、波留は機密を「持ち逃げ」はしていない事になる。
 しかしその先に存在していた波留独自の調査については、ソウタは全く判っていなかった。発券チケットや搭乗履歴から「北京へ向かった」と把握出来た以降からは、彼の前から波留の足取りは途絶えていた。それ以降を推測させるだけの情報を、波留は残していかなかった。だからそれ以降を、ソウタは今回初めて波留自身から開示された事になる。
 そして、それらの説明を終えた波留は、携えてきた鞄を開く。そこから紙の束を取り出した。それを、ソウタが着いている黒いモノリス状のデスクの上へと置いた。
「――…これは?」
「中国大陸まで出向いた僕の成果です」
 波留から返ってきたのは、婉曲的な答えだった。だからソウタは首を傾げる。大体ここで提出するのだから、そういうものであると言う想像はついていた。ならば、その「成果」とは具体的にどのようなものなのだろう?
「帰り際にジェニー・円さんが僕に渡してくれました。どうやら、今回のテロに関しての何らかの証拠物件になるのではないかと思います」
 沈黙するソウタを前に、波留は淡々と説明を加える。それを聴きつつも、ソウタはその白紙の表紙に視線を落とした。手書きなのかそれともプリントアウトされているのか、表紙からは全く類推が出来ない。眺めていても、中身が透けて見える事もなかった。彼はその一端を指で摘み上げつつ、報告中の人物へと訊く。
「具体的には、これは一体どういう内容なのでしょう?」
「判りません」
 即答だった。その断言に、ソウタは思わずページから指を離す。紙の一端には折り目が僅かについてしまってはいたが、ソウタには2P目以降の内容が見えないままに表紙がぺらりと戻ってゆく。
 ともかく波留の言動に、ソウタはますます首を捻る。――波留さんは、一体何を言っているのだろう。自分が判っていないものを、報告書として提出すると言うのか?それは、調査結果としては如何なものだろう。
 沈黙がふたりの間に下りる。ホロンはソウタに用件を与えられたため、このオフィスには不在だった。そのために妙に静かな空気が室内を満たしていた。
「――僕は、そのファイルをジェニー・円さんから受け取っただけです。中身は一切見ていませんので、内容については触れる事が出来ません」
 やがて、表情を浮かべないまま、波留はそう告白した。直立不動のぴんとした姿勢を保ち、ソウタの前に立っている。
 その態度に、ソウタははっとした表情を浮かべる。波留が一体何を言わんとしているのか、その態度の裏に隠された意志を汲み取った。
「…そうですか…――」
 言いながら、ソウタはすぐに顔を俯かせる。顎に手を当てた。自らの考えを脳内で纏めてゆく。
 ――波留さんは、この内容を知らないと言っているのだ。わざわざ中国大陸の奥地まで旅立っておいて、その成果を敢えて閲覧していない。普通ならば、そんな態度は取らないはずだ。自らの立場も信頼も全てを投げ出して得た文書を他者に丸投げするなど、事前の決意とは明らかに不釣り合いだ。
 なのに――波留さんは「何も知らない」。
 つまり、これ以上は、今回のテロについて調査するつもりがない。そう言う事だろう。その明確な意思を、書類を閲覧していないとの事実の提示から、他者にあからさまに表明してみせているのだろう――。
 そのように結論を導き出しつつ、ソウタは白紙の表紙を数度指先でつつく。そして、俯いたまま口を開いた。
「――お元気そうでしたか?」
「…え?」
 今度は波留が怪訝そうな声を上げる番だった。ソウタのそれは、主語を廃した唐突な台詞だったからだ。
 ソウタの指先がまた何度か、白い表紙をつつく。紙と爪とが触れ合う音が微かに聴こえた。そして、彼は顔を上げた。前に立つ波留を見上げる。
「人工島を離れられたとは言え、ジェニー・円さんがお変わりなければいいのですが」
「ああ…――」
 ソウタからもたらされた補足説明に、波留は納得した様子で頷いた。彼もまた、相手側の言わんとする事を汲み取っていた。
「新たな目標に向けて、精力的に研究をなさっておいででしたよ」
 柔和な表情を浮かべ、波留はそう答えていた。彼が件の村で見てきた一端を、そのまま話題にする。訊かれた事に対して、そのままを素直に答える事にした。
「そうですか。彼については、人工島では結果的に不幸な結末になってしまったので…俺としても申し訳ないなと思っていたんですよ」
「本当にお元気そうでした。あの不屈の精神は見習いたいものです」
「なら、いいんです」
 会話の流れに、ソウタは口元を綻ばせた。彼にとってはそれは、懐かしい話題だった。――少なくとも、そうアピールしてみせた。結果的に自分の手で追放した格好になっているその人物に対してのある種の後悔の念は、本心である。しかし、彼の心中にあるのはその本心のみではなかった。
 そして、部長代理はデスク上の書類を一瞥する。両手を顔の前で組んだ。視界に入れつつも、書類に触れる素振りを見せない。
「――申し訳ありませんが、波留さんには今後、この件の調査からは外れて貰います」
 淡々とした宣告に、波留は頷く。そのまま、実質上の若き上司に一礼した。沈黙を保つその顔に感情は全く現れて来ない。
「今まで波留さんが入手した全ての情報を、電理研調査部に回します。これからは専門職たる彼らに一任しましょう」
「…異存ありません」
 頭を下げたまま、波留は低く落ち着いた声を発した。部長代理の宣告を追認する。
 彼は本心から、その決定に従うつもりだった。何しろ自分は、機密を持ち逃げした身分なのだ。なのに何の処分もされないのだから、むしろ寛大過ぎるだろうと感謝したくもなる。
 ――そもそも機密持ち逃げの時点から秘密裏に全てを終了させなければ大問題になってしまうのだ。「何も起こらなかった」のならば処罰の下しようがないと言う現状も、波留は把握している。暴挙に至ったものの安全圏は確保していた自分を、波留は姑息だと思う。だからと言って重い処分を自ら望むのも、何かが違うだろう。
「その代わりと言っては何ですが、俺も一切の手を引くつもりです。もう介入するつもりはありません」
 波留の本心を知ってか知らずか、更にソウタは付け加えていた。眼前の白紙の表紙に視線を注ぎつつも、それ以降を見ようともしない。波留同様に、その内容を知ろうとしなかった。書類に触れない事で、その態度をあからさまに示す。
「お互い、それで全て終わりにしましょう」
「…それが賢明でしょうね。統括部長代理」
 答えつつ、波留は姿勢を正す。自分の不祥事の始末に、どうやらこの部長代理は付き合ってくれるらしい。自分が調査から外すのと同時に、彼自身も手を引くのだから。そう考えると、ますます申し訳ない心境に陥る。
 しかし、ソウタの決断は必ずしも任命責任に殉じたものではない。そこも、波留は理解していた。
「俺達は、少しばかり深みに嵌り過ぎたんです。頭を冷やしましょう」
 ソウタ自身が最後に告げたその台詞に、波留は自分の理解が正しいのだろうと推測出来ていた。ソウタが言うように、これが潮時なのだろうと思った。
 この1件については、すっかり常軌を逸した態度を取ってしまった。波留にはその自覚がある。
 そしてソウタも、そうなりそうな自分を律していたのではないだろうか?いずれは波留同様の暴挙に出たかもしれないと、自覚があるのではないだろうか?
 ならば、波留への「処分」を口実に、自分も一切の手を引いて終わりにするのが賢明だろう。手を引くいい理由づけになったはずだった。
 ――何故このテロ案件について、互いに危うい橋を渡りかねないと危惧していたのか。実際にやってしまった波留には、その理由は良く判っていた。そしてソウタも、同様の感情を抱いているのだろうと認識していた。
 久島永一朗とは、それ程までに大きな存在だったのだ。
 
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