自らの秘書が去った後、ジェニー・円はそのテーブルに戻っていた。 その隣には大きな窓が広がっており、ガラス越しに外の風景が映し出されている。他の都市のように煌びやかとはいかないが、この街なりの夜景がそこには点在していた。 座席に着く前に、彼は濃い緑色をした瓶を1本手に取る。こんな都市ではあるがあの秘書はまともな状態のものを入手したらしく、瓶の表面には汗を掻いている。 彼は自らの手が濡れるのを厭わず、その表面を持つ。ビール瓶らしく簡素な栓がなされていたが、そこに栓抜きをあてがい、抜いた。小気味いい音が立ち栓が抜けるとその口から白煙が微かに上がり、麦の香りが漂ってきた。 ひとまず栓と栓抜きをテーブルに置き、彼は瓶を手にして傾ける。その注ぎ口を自らの側にあったグラスに押し当て、黄金色の液体をグラスの縁から注ぎ入れた。独特な音を立てつつも、グラスの半ばまでに届く。入れ方は上手かったらしく、泡の量も酷く多くはならなかった。 彼はグラスの縁に注ぎ口を押し当てるようにして、瓶を持ち上げる。液体を零さないように気を遣った。中腰の体勢のまま、その黄金色に染まったグラスを一瞥する。その表面ではぽつぽつと泡が弾けていた。 手の中にある瓶の内部にはまだ液体が残っている。瓶に対してグラス1杯分しか注いでいないのだから、当然の話ではあった。彼は視線をそちらに移動させたが、そのままテーブル全体へと移す。 そこにはもう1本の瓶ともう1個のグラスとが存在している。ビールを手配したのは彼の秘書ではあるが、直接部屋に持ってきたのはホテルのルームサービスである。 依頼されたのが2本のビールなのだから、何の申しつけがなかったにせよ気を利かせてグラスを2個揃えて来たのだろう。或いはその客が男女ふたりだったので、そう言う方面での気を利かせたのかもしれない――今となっては、彼にはそんな勘繰りが可能だった。 しかし手配したあの秘書自身は、そんな想定などしていなかった。それは態度からも明らかだった。 ともかく円は、彼にとっては余分なグラスを一瞥した。そしてそのグラスの縁に、瓶の注ぎ口を押し当てる。内容量が少なくなっている事もあり、先程よりも角度をつけて傾け、中の液体を注ぎ入れた。自分の方のグラスと同等量になるように気を遣い、それを実現した。 それから彼は瓶を上げ、テーブルに置く。その底の方にいくらか残されているが、わざわざ分けて注ぎ入れる事もしなかった。 中腰のまま、グラスを1個持ち上げた。それを、自らとは対面の側にそっと置く。そこには席がもうひとつ存在していた。 彼は腰を下ろした。自らの側の席に着く。手元に存在するグラスを持ち上げた。 弾ける泡を顎の下に感じつつ、対面に置かれたままのグラスを眺めた。そこには、窓の外の風景が僅かに照り返している。白い泡の層がそれを遮ってもいた。 未だ開けられていないもう1本の緑の瓶の表面は汗を掻き、テーブルへと雫を垂らしている。その深い緑に、室内灯がぼんやりと照り返した。 室内に響くのは、暖房機具が発する音のみである。外からの灯りも転々としていて、相当に静かな夜だった。まるで――彼には深海を連想させた。そしてそれに思い至ると彼は、まだ自分からは人工島での気分が抜けていないのかと自嘲せざるを得ない。 ジェニー・円はそれらの風景を義眼に映し出している。その合間を、芳醇と表現するに充分なビールの香りが埋めてゆく。 彼はそれらを感じつつ、口を開いた。淡々とした声で、その名を短く呟いていた。 「――…久島」 |