大陸のこの地方都市は、夜闇に包まれ沈黙していた。それでも街並みの一部には灯りがありそこでは人間の姿がちらほらと見えるのだから、この国の中では賑やかな方の街だろう。 それなりに発展を保ったままの都市なのだから、そこそこ格調高いホテルも存在している。村から離れたジェニー・円が一晩の宿を求めたのも、この手のホテルだった。もっとも彼当人が選んだ訳ではなく、秘書の手腕に拠る。 「――そうか、波留真理さんは帰ったか」 「はい」 その一室の入り口にて主と秘書が会話している。しかし、扉の敷居がふたりを隔てていた。それがふたりの立場を良く表している。 「それでは、君にはこれを返しておこう」 円が懐から何かを取り出し、秘書へと示す。その手の中にある物を秘書は伏し目がちに一瞥した。軽く頷き、自らの手を伸ばす。恭しく手を添え、受け取った。 それは、先程主に引き取られていた彼女の銃だった。表情を変化させず、彼女はコートの胸元を開けてそこに無骨な鉄を収める。 それと入れ替わるように秘書は、右手を差し出した。そこには小さな紙が収まっている。それは簡素に二つ折りにされていた。 「――私はこちらに滞在しておりますので、御用がおありでしたら申し付けて下さい」 そのメモを円は受け取り、開く。そこには部屋番号が記載されていた。彼はそれを認めて頷いた。それからその手を軽く握り締め、手元に収める。 「――しかし、お珍しい事もあるものです」 「何がだね?」 淡々とした口調でもたらされたその台詞に、円は顔を上げる。そして自らの従者を促した。彼女は部屋の入り口からちらりと部屋の奥を見透かしているようだった。その視線の先には、リビングが存在している。 秘書が訪れる以前、円はそこに落ち着いていた。それを表すかのようにテーブルには濃い緑色の瓶が2本置かれていて、それらの傍らにはグラスも合わせて2個準備されている。しかし瓶の栓は開けられていない。準備されていたものの、未だ酒宴は始まっていなかった様子だった。 「ミスターが今晩に限ってビールを御所望なされるとは意外でした。いつもはワインかシャンパン、あの村においても白酒ですのに」 秘書のその述懐は相変わらず淡々としたものではあるが、かろうじて怪訝そうな響きを表している。彼女の態度に、円は口許を吊り上げて笑った。そして明快な口調で、従者の疑問に答える。 「私にはそう言う気分の日もあると言う事だ。君は優秀だからな、入手困難と思っていた酒もすぐに手配してくれた」 「恐縮です」 付け加えられた自らへの賞賛らしき台詞にも、秘書には全く心動かされた様子はない。彼女は只一言答え、会釈するのみだった。 「――折角グラスがふたつあるんだ。君も乾杯して行ってはどうだね?」 そこに、唐突に円はそんな事を言い出してきた。唇には薄い微笑みが浮かんでいる。 秘書はその何処か軽い口調でもたらされた誘いに、一瞬動きを止めていた。その表情も強張った印象がある。意を伺うように、主を一瞥してくる。 しかし、彼女はすぐに平静を取り戻した。普段のように主に対して深々と頭を下げ、淡々と答える。 「――…私は、ミスターの秘書に過ぎません」 秘書は主に対して最大限の礼節を保ったまま、遠回しに彼からの申し出を拒否した。その台詞こそが自らを律する言葉であるかのように。 「…そうか。私自身が先程君にそう言ったのか」 彼女の一歩引いたままの態度に、主は呟くような言葉を零す。自らが述べた台詞が事実である事を認めた。彼が視線を落とすと、そこには部屋と廊下の境目があった。互いの靴は、そこを境界線とするかのように向かい合っている。 主の言葉に、それ以上秘書は何も答えない。只無言で一礼したのみだった。そして彼女は完璧な作法のまま、退出してゆく。 |