結局彼らは、秘書の予告した通りの状況に陥っていた。
 いくら有能な秘書であっても、やはりあのホワイトアウトした後部ガラスを自前で修理する事は出来かねた。だから彼らは都市に出戻り、整備工場を頼る事とした。
 会話と行動の密度の割に彼らはそこまで遠くまで疾走してはおらず、都市に再び辿り着くのに時間は然程要さなかった。それでも門番たる兵士には明らかに疑われているような顔をされた。
 何せ、彼らからも後部ガラスを破損している状況は一目瞭然なのである。何処で誰に襲撃されたのか――その手の尋問対象にされるのは当然の話だった。それは、この車の乗客達を怪しんでいるだけではない。夜盗が近辺に徘徊しているとの情報の把握は、この都市に駐屯している軍には重要なのだから。
 そしてこの手の尋問を交わす手筈についても、この秘書は優秀だった。彼女はまず門番などの兵士と話し、更には彼らの上官と面会した。その結果、早々に主と元客人とを厄介事から解放してしまった。
 それから彼女は自らの仕事に邁進する。夜も更けているのに、繋ぎがある整備工場に車を入庫させた。そして主に宿を手配してしまう――。
 しかし、波留には宿は提供されなかった。
 それは彼女にとって波留は最早客人ではなくなっているから――ではない。宿を手配する必要がなかったからだった。
 その晩に、秘書から波留に手渡されたのは宿の部屋のカードキーではなく、複数枚のチケットである。それらに波留は見覚えがあった。この都市から鉄道最寄り駅へのバスチケットに、更に乗り継いでの北京までの鉄道乗車券――そして、北京国際空港から人工島国際空港への航空便のチケットだった。
 与えられた時間は僅かだったはずなのだが、この秘書は波留の交通手段をきっちり確保していた。その確実さに、波留は舌を巻く。やはりこの秘書はとても優秀だ――その思いを新たにした。
 ともかく彼は、ありがたくその配慮を受ける事とする。決して安価ではない金額であるはずだが、それを支払われたままとする。にこやかな表情で礼を述べ、荷物共々チケット類を受け取っていた。
 これで、最後のはずだった。彼らとはもう会う事はないと思われた。
 この秘書からは最後に射殺されかけると言うとんでもない目にも遭ったが、それも主への忠誠心の表れだと思えば彼女自身に不快感は覚えない。その件については未だに謝罪の言葉を貰っていないのだが、波留はそれでも構わなかった。
「――本当にお世話になりました」
 波留はそう言い、微笑んで右手を差し伸べた。秘書に別れの握手を求める。
 しかし彼女はその手を一瞥したのみで、自らの手を挙げる事はない。口を噤み、伏し目がちに沈黙している。
 無視された格好の波留は、それでも気分を害していない。彼は苦笑を浮かべるのみだった。
「それでは、あなたの主人であるジェニー・円さんに宜しくお伝え下さい」
 仕方がないので、波留は自らが言いたい事のみを告げた。そして一礼し、筋を通す。この笑わない秘書は、主の指示がなかったような事には対応しないのだろう。だから自分から握手を求められても応じない。秘書に過ぎない自分にはその資格がないと認識しているのだろう――。
 ――ともかく、これで全ては終わった。後は用意されたチケットに従い、帰途に着くだけだと波留は思った。
「――波留様」
 そんな風に波留が頭を下げている中、秘書が彼の名を呼んでいた。それに、波留は俯いたまま軽く反応する。彼女から自分へ呼びかけて来るとは珍しいと感じた。
 しかし、やはり最後には何らかの挨拶を交わしたいのだろうかと思う。だから彼は微笑みを浮かべて顔を上げた。
 秘書は無表情のままの顔で、波留を見ていた。直立不動で畏まった姿勢は完璧な礼儀を保っている。普段からのペースを崩していなかった。その美しい顔立ちの中にある形の良い唇が、言葉を紡ぎ出していた。
「ミスター円は何故、別の研究者を立てる事無く、自らあの研究を続けていると思われますか?」
 その問い掛けに、波留は咄嗟に反応出来なかった。軽く口を開いて呼気を漏らしたまま、声は出てこなかった。その視点から、彼は今回の件について考えた事はなかった。
 そしてそれ以前の問題として、この秘書が自分から問い掛けをしてくるものなのか――それも、自らの任務だった僕の世話に関わる事でもない話を。それが意外で仕方がなく、波留の思考は立ち止まってしまっていた。
 波留からの反応が返って来ない現状を秘書は静かに受け止める。口を開き、その問いを補足し始めた。
「全身義体であるミスターは、その義体を換装したなら別人になれます。それに仮にあの研究が成功を収めたとしても、発表段階ではまず反発を受ける事は必至です」
 秘書からの冷静な分析に、波留は頷いた。彼女が言っている事は全くもって正しいと思った。
 人間は互いをまず外見で判断する社会生物である。それを思えば、今年8月からのジェニー・円は、容貌を容易に変化させる事が可能な人形遣いとしての本領を発揮しても良かっただろう。唯一変更出来ない脳も、他者と接触するような外部公開領域を偽装してしまえば正体を偽る事が可能だった。
 彼は自らの研究の正当性と可能性の両方を未だに信じ、邁進している。しかしそれらの主張が仮に正しかったとしても、人間とは感情の生き物である。その研究が以前地球を滅ぼしかけた事実は確実に残っており、彼らの記憶にも鮮明に残されてしまっている。そこに同じ研究のアップデート情報を引っ提げて発表した所で、猛烈な反対を喰らうだろう。
 それらの可能性には、少し考えたら辿り着くはずである。彼の前に広がるのは、ひたすらの茨の道だった。
 では何故、そこまでして彼はこの研究を続けるのだろうか。先程当人が言ったように、可能性を諦めたくないから?――そこに落ち着くのだろうか。
 しかし、そこを遭えてこの秘書は、波留に問い掛けてきている。
 波留は沈黙を護っていた。この問いに、どう答えていいものか判らなかった。
 
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