秘書はかぶりを振る。その拍子に、僅かにショートカットの髪が揺れた。そして彼女はきっぱりと告げた。 「私は――ミスターは、自らの失敗した研究の後始末を行いたいのだと認識しております。科学者を名乗る人種とは度し難いまでの意地と誇りを持っている探求者なのだと、私はこれまで近くで見て来て理解して来ました」 波留は軽く息を飲んだ。この秘書が自分の意見を曝け出した事は、この数日間の付き合いの中で全くなかったからだ。 彼女は有能な秘書であり、それも人間でありアンドロイドではない。だから感情の揺れと言うものは何処かに存在するはずで、それを波留の前で僅かに垣間見せる事もままあった。 しかし、ここまであからさまに、それも自発的に自らを明らかにした事は初めてだった。どんな心境の変化なのだろうと思う。 秘書の姿勢は、当初と変わっていない。美しい姿勢で畏まっていた。しかしその視線には怜悧さが増してゆく。そしてその唇が動いた。 「おそらくは――久島部長も、御自身が提唱されていたあの仮説が世間に否定されたならば、やはり同等の事をなされたと私は思うのです」 その台詞には、波留は双眸を見開いていた。 大陸の夜の冷たい空気が頬を撫でる心地がする。その空気を彼は肺へと取り入れた。 ――彼と久島が、同一だと? 彼女はそう言いたいのだろうか。 台詞の内容を精査すればそう聴こえて当然だった。しかし波留は、その結論には納得が行かない。信じたくないと言い換えるべきかもしれない。 久島永一朗もジェニー・円も、両者とも夢想とも知れない研究に生涯を捧げた形になるだろう。しかしその結末は、現在時点では大きく異なっている。片や真実に辿り着いた満足感と共に事象の彼方へと消失し、片や地球規模で失敗した挙句に地位と名誉を失い、再起を賭すにも辺境の地で息を潜めるように行わなくてはならない事態に陥った。 しかしこの秘書にとっては、彼らは同じく「探求者」であり、それは「度し難い意地と誇りの持ち主」と表現出来る。彼らの差は成功と失敗だけで、それも僅かな差でしかない――そんな捉え方なのだろうか。 そんな風に推測してゆくと、波留は視界が狭まる心地がした。脳の奥で何かが弾けた感覚を覚える。胸に息が詰まり、それを意識して吐き出しに掛かった。 「――…あなたに、久島の何が判ると言うのですか」 そして波留は押し殺すように、そう言っていた。しっかりとした口調で、ゆっくりと言い聞かせるような台詞だった。 彼の眉間には深い皺が刻まれている。細められた瞳には光が走っている。その口許は歪んでいた。 ――他人に、僕と久島の、何が判る…――。 彼の脳裏にはその感情が繰り返されている。それは正しく感情そのものであり、頑なな想いだった。全く、苛立たしい――。 「そうですね。出過ぎた事を申し上げました」 そんな波留に対し、秘書はあっさりと頭を下げた。謝罪の意を明確に表す。 「どうも今日の私は余計な言動ばかりを取ってしまっております。波留様のお気に触る事ばかりで申し訳ございません」 頭を下げた後にも、秘書の口からは述懐めいた言葉が漏れていた。 それに、波留は我に帰る想いがした。――もしかしたら今の弁には、例の射殺未遂の謝罪も含まれていたのかと勘繰ってしまってもいた。 「いえ…そんなあなたも人間らしくて魅力的だと思いますよ」 思ったままの事を述べ、波留は微笑む。すると、そんな彼を見る秘書の視線が、何処か胡散臭い色に変化していた。僅かに首を傾げる彼女の態度に、黒髪の青年はますます笑いを誘われる。 そこに、新たな話が振られた。 「――波留様。あなたは私がミスター円との契約を更新した事を意外にお思いになられておられたようですね」 「…ええ」 波留は頷いた。記憶を辿れば、確かに彼女に出会った当初はそんな感想を抱いたものだった。そしてそれを態度にも表していて、気付かれていたのかと今更思う。 「いや、失礼な事だと、それには今でも反省してまして――」 「簡単な話です」 慌てて取り繕った感の波留の弁解を、秘書の言葉が断ち切った。 「ミスターが居ない人工島は、私にとっては最早楽園ではないからです」 それは、相変わらず淡々とした声だった。発した表情も一切変化させていない。それだけに、彼女としては特別な事を言ったつもりはないのだろうと思わせる。 「波留真理様。大切なものを喪ったあなたにとって、本当に、人工島は未だに楽園なのですか?」 冷静に続いたその問いに、波留は口篭る。言葉が口を突いて出て来ない。 そして、彼は結局その答えをもたらす事が出来なかった――問われた秘書にも、そして彼自身の心にも。 |