未だ停車した車の周辺は夜闇に落ちつつある。
 車内から銃弾で撃ち抜かれた後部ガラスは完全にひび割れてしまい、後方視界が確保出来ない状態だった。そして、小さくはあるが弾痕が空いたまま走り続ける訳にはいかなかった。このままの状態で村に辿り着いては何事かと思われるだろうし、何よりこの防護に不備がある状態で本当に夜盗に襲われては大事だったからだ。
 現在、運転手である秘書が車外に下りている。その弾痕とガラスの状態をチェックし、必要ならばこの場で修理する。そうでなければ、先程の都市に引き返して整備工場入りさせる――そう言う方針を、主と客とに明示していた。付け加えるならば、おそらくは後者になるとも。
 ――またあの都市に戻るとなると、波留様には多大な御迷惑をお掛けする事となります。御容赦下さい。
 車外に立つ秘書はそう言い、後部座席の窓から覗く波留の顔へと深々と頭を下げてきた。その態度には、言われた方は一体どんな言動と取るべきなのか、迷ってしまう。
 この秘書は、客人たる波留に確かに謝罪している。しかしその謝罪理由とは、自分のミスでガラスを破損したが故に道程を戻る必要が生じてしまったから――彼女はそう言わんばかりなのだ。
 まるで、走行中に路傍の石を跳ねてしまってガラスを割りでもしたのかと、この謝罪だけ訊けば誰でも思ってしまうだろう。実情の「客人を射殺しようとして主に阻止され、結果ガラスを撃ち抜いただけとなった」とは、誰も言い当てる事など出来ないだろう。
 しかもこの秘書は、未だにその射撃自体について波留に謝罪していない。波留を殺そうとした事そのものを詫びていないのだ。只、主に「出過ぎた真似」を謝罪したのみである。
 ――アンドロイドでも、ここまで融通が利かない態度は取らないだろう。理論的に動き過ぎる女性だ――波留はそう思う。そのせいか、彼女に対して恐怖や不快感を覚えるどころではない。あまりに理路整然としているが故の奇異さに、全ての印象が負けていた。
 そしてジェニー・円に対しては、緊張の糸がぷっつりと切れたままだった。
 あの一触即発の空気を、唐突に第三者の介入で破られたのである。しかもその第三者こそが、波留に対する明確な殺意を持ち込んできた。それを阻止し、或いは阻止されて護られる事により、ふたりの間にはあの緊張感が戻ってくる余地がなくなっていた。
 だからと言って、ふたりの間に存在していた問題が一切消えた訳ではない。そのためか、ふたりは黙り込んだままだった。日が暮れた今、秘書が後部ガラスの確認のために外から当てている懐中電灯の灯りのみが、彼らに降り注いでいた。
「――君の荷物、全てトランクの中に積んであります」
 そこで唐突にジェニー・円がそんな事を言い出していた。これまでの会話同様に、日本語である。
 その台詞に波留は顔を上げた。一瞬何を言い出されたのか、理解出来ない。
 そんな黒髪の青年を、強面の壮年の男は見やった。淡々と続ける。
「北京や日本――或いは人工島か。ともかく、何処にでも行くといいでしょう」
 何処か投げ槍に発せられたその耳馴染みの地名を聴覚に捉えつつも、波留は首を傾げた。しかし彼からの答えを待たず、円は言葉を積み重ねてくる。
「君が本気で脳の精密検査を受けたいのなら、私の名で紹介状を書いてもいい。北京や福岡になら、この御時世でも充分に私の名が通用する施設があります」
 ジェニー・円はまるで人類の敵のように扱われ、人工島を追われる身の上とはなったが、それでも支持者は今尚一定数確保しているらしい。彼の拠点たるアジアの大都市にはまだ息の掛かった施設があってもおかしくはない――そんな現状への示唆は、波留にも理解出来ている。
 しかし、こんな話が持ち出された展開が掴めて来ない。どうしてこの眼前の人物は、自分にそんな事を言うのだろう――。
 円の手の中には未だに、秘書から徴収した銃がある。安全装置が作動し撃てない状態のそれを、彼は弄んでいた。大きな手にはアンバランスに見える銃を持ったまま、彼は関心なさげな口振りで続ける。
「君が遥々私に求めてきた答えも、合わせてトランクの中に積みました。それさえ受け取れば、君はもう我々の村に戻る理由はないはずです」
 ――どうやらやんわりとではあるが、早急にここから立ち去れと、僕は言われているらしい。
 ここまで直接的に言われた時点で、波留はようやくそれに想いが至る。
 確かに円が婉曲的に指摘しているように、波留の当初の目的は今回のトラブルとは全く関わりがない。その答えを円から受け取ってしまえば、彼の村への滞在の口実など消え去るのである。少なくとも、ホストだった円には彼を自宅へ置いておく理由がなくなる。
 しかし、波留には疑問があった。目的の答えを円から貰えたなら、あの村から立ち去る分には一向に構わない。むしろ、ここまで機密を知った自分に手を出さずに見逃してくれるのならば、渡りに船である。
 彼はその疑問をそのまま言葉にした。藪を突付いて蛇を出すような問いかもしれないが、つい先程まで物騒なやり取りを行ったのだ。これを解消しない限り、座りが悪い。
「…あなたは、僕を帰してもいいのですか?」
 円がこの村で行っている全てに気付いた波留を、放置する。何ら手を打たず、帰郷させてくれる。
 それでは、先程までの緊張感は一体何だったのか。何かする気があったからこそのあの不穏な空気なのではなかったのか?実際、あの秘書は銃を撃ってきたではないか――。
「私は人工島の居住資格を剥奪されています。もう人工島の住民はないのです。ですから、君達にどうこう言われる筋合いはないと考えます。少なくとも、法的にはね」
 そのジェニー・円の言葉は、正論だった。彼の堂々とした態度からもそれが判る。
 人工島ではない場所で、人工島の住民が何を言おうとも、拘束力を持たない。今回の場合、村人達に真実を教えて教唆するならともかく、法的には波留個人には村の自治への介入権などなかった。
 電理研すらこの地には法人としての能力を有していないのだから、彼らの介入の根拠もない。政府に進言してこの地域の行政を動かして対処する事は出来るかもしれない。しかしそれも、ほぼ崩壊してしまっているこの国家組織の前では、無意味だろう。
 とは言え、このジェニー・円は、村人達を断りもなく人体実験紛いに利用している。法的には咎められる謂れはないにせよ、倫理的と言う面で正論足り得るかは不明だった。
 しかし、それも流動的な考え方である。波留の覚えた危機感が必ずしも世間一般的に正しいとは言えないだろう。先の失敗を加味した上で順調に開発が進めば、その技術は人類の宝となり得るのだから。
 そして結局の所、波留自身にこの1件について何処まで労力を行使する気があるかと言う問題に落ち着く。本気で阻止したいのならば、法的手段に基かない方法などいくらでもある――それこそ7月末に彼らが実行した気象分子プラントへのハッキングのように。
 確かに前回はそこまでした。しかし今回の1件においても、同様の感情を持てるのか?――波留はそう、自身の心に問えば、必ずしもそうではないと気付くのだ。
 先程までのいざこざは、あくまでも自分に降りかかった火の粉を振り払っただけなのだ。一旦この場から立ち去ったなら、後はどうと言う事はない。只、そう言う事実があったと心に留めておくだけで――今すぐアクションを取ろうとは思わない。
 それは彼にとっても変わらないのだろう。だから、僕を帰すのだ――。
 
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