波留はシートに背中を張り付かせたまま動かない。両眼を見開き、口を半ば開いたまま沈黙していた。
 彼は呼吸を忘れたまま、眼前を凝視している。しかしそこに何があるのか、彼の脳は把握出来ない。瞳にはしっかりと映っている光景があるのだが、それを認識出来ない。彼は、現状についていけていなかった。
 ゆっくりと、眼球のみを動かす。横目で、彼は傍らを見ようとした。しかしそれでは視界を確保出来ず、彼は結局軽く首を捻る。
 車の後部ガラスの、彼の左後方に位置する箇所に、小さな穴が空いていた。そこから放射状に細かなひびが走っている。
 そのうちに、彼の鼻腔が硝煙の匂いを嗅いだ。漂ってきたそれを彼はようやく認識していた。脳に嗅覚が戻ってきた事により、彼は一気に状況を把握する。
 彼の眼前の運転席にて車を運転していたはずの秘書が、後ろを振り返っている。そして彼女の右手には銃が握られていた。その銃口からは細い煙が微かに立ち昇っているのを目視出来る。
 この秘書は、少なくとも村の外に出る時には銃を携帯している。その事実は、先日の送迎時に波留に告げていた。曰く、盗賊や夜盗などから身を護るためのものだと。こんな荒野ではその備えも必要であるのは、部外者の波留にも明白だった――果たして、一般人の銃の携帯がこの国において合法だったかは別問題として。
 しかし今、彼女所有のその護身用の武器は、後部座席へと向けられている。そこには自らの主と客人が居る。彼らは、本来ならばその秘書が銃を向ける相手ではなかったはずだった。
 しかし、彼女が目論んだであろう本来の目的は果たせていないようだった。その原因は、必ずしも彼女の射撃の腕前に拠るとは言えない状況である。
 銃を持つその秘書の手を、彼女の主が自らの左手で押さえ込んでいた。
 波留の隣に座っていた彼は身を乗り出し、波留の前を横切るように左腕を突き出している。その手が銃を掴み、その銃口を逸らし、済んでの所で発砲する位置をずらした様子だった。だから弾道が若干、座席の端へと逸れたのだ。本来ならば、秘書はもっと右側を狙っていたはずだった。
 ――彼女が運転する車にブレーキを掛け、そのまま振り向いて、銃を抜き、撃ってきた。
 波留はその現状から、そう解釈する。そして何に対して発砲したかと問えば――この弾痕から鑑みるに、そう言う事なのだろうと彼は理解した。
 実際、未だに彼の左頬には振動の余韻が残っている。そこを掠めた音と風とを、総毛立った肌に感じていた。
 一方、発砲した側であるその秘書が漂わせている雰囲気は、普段と然程変化していない。彼女が湛える表情は冷静そのものであり、一切の感情を廃していた。今までに、人間に向けて発砲した経験がない訳ではなさそうだった。
 そして、彼女は発砲と言う行為自体には特別な意味を見出していない様子である。だから前触れも殺気も感じられず、波留にとっては唐突な襲撃になったのだろう。
 現状の彼女は無表情に後部座席を振り向き、銃口を向けていた。その手を主に押さえ込まれていたにせよ、その表情は一切変化していない。
「――…止めなさい」
 その時、波留は静かな声を耳にする。それを発したのは、彼の隣から身を乗り出して片腕を伸ばし、こちらに向けられた銃口を逸らした男だった。
「君は、それをしてはならない」
 ジェニー・円はゆっくりと言い含めるような口調で、そんな台詞を言う。秘書の右手ごとその銃を自らの手で押さえたまま、彼女の顔を見やる。
「秘書に過ぎない君は、私の全てに何ら責任を負っていない。――何度言えば、判るんだね?」
 台詞の最後は、何処かうんざりとした響きがあった。しかし彼がその感情を含めたのも、僅かながらである。
 その台詞を訊いた直後、秘書は視線を落とす。ちらりと自らの右手を見た。そこにある銃と、主の手を視界に入れる。
 そして彼女は僅かに口を開いた。何かを喋ろうとしたらしい。しかし、それが明確な声として発せられる事は遂に無かった。
 すぐに秘書はその口を噤み、瞼を伏せた。そして彼女は未だ指を添えていた引き金から、ゆっくりとその指を抜く。そのままグリップからも全ての指を剥がす。すると、銃の上部を握ったままの円が、それを持つ事となった。彼女は、自らの銃を主の手へと託すに至る。
 後ろを振り向いたままの姿勢で、秘書は両手を膝に合わせる。美しい着座姿勢を保ち、深く頭を下げ、言った。
「――…出過ぎた真似を致しました。ミスター、申し訳ございません」
「全くだ」
 従者からの謝罪の弁に、主は憮然とした表情を浮かべて短く答えた。その間に左手の銃を手早く操作し、安全装置を作動させる。
 そのやり取りを、波留は第三者として呆然と見つめるばかりだった。実際、彼の存在はふたりにとって完全に蚊帳の外のようである。
 
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