その頃には、疾走する車窓から見える風景は暗くなりつつある。空では日が傾き始めていた。周辺に何も存在しないこの荒野では、ヘッドライトを点灯させたにせよそのうちに夜闇に飲まれてしまうだろう。 波留は、自らに伝わってくる振動を感じていた。腰に轍の感触がある。元々褒められた状態ではない道を走っているとは言え、現在は相当の悪路を走っている感がある。そして、彼は先に村を訪れた時、そんな道を通った覚えが無かった。 車窓の風景は代わり映えしない。だから今自分が何処の地点に居るのかなど、正確には判る訳が無い。全ては運転手たるこの秘書に任されている。そしてその彼女に指示を送るのは、彼女の主たる隣の人物だった。 波留の前では、ふたりの間に一切の会話はなかった。しかし事前の打ち合わせが無かったとは言い切れないし、秘書と主の間には特別な符丁が決められていた可能性もある。波留はその可能性に思い至る。 「――…私を殺してでも、止めますか?」 そこに、不意にジェニー・円がそんな事を言ってきた。 物騒な台詞の内容にしては、彼の口調は相変わらず穏やかなままである。しかしその口許からは笑みが消え失せていた。そして淡々とした口調のまま、彼は続ける。 「この付近には通信分子が標準濃度で残存しているようだ。メタルダイバーのあなたなら、その能力を存分に行使出来るだろう」 その指摘を受け、波留は反射的に自らの電脳を起動した。メタルへの接続を試行すると、障害も無くそのコマンドは受け容れられていた。そしてその接続の安定も確保されている。 確かに、この隣の男からの示唆は適当であるようだった。おそらくはこの付近では、過去に何らかの組織が散布した通信分子が未だ一定濃度のまま健在なのだろう――波留はその現状と、その現状において自らに行使可能な技術とを、理解する。 しかし、それは必ずしも波留のフリーハンドを意味しない。彼にはそれも判っていた。だから、無意識のうちに、腕組みしていた手に力が篭る。 彼にとっては不覚にも、僅かにその手が震えを覚えるのを感じた。それが怯えに拠るものなのか、それとも武者震いと言う奴なのか、彼自身には判別がつかなかった。 ともかくその感覚を自らの手に感じつつ、彼は言う。こちらも相手同様に落ち着き払った、冷たい声色だった。 「…あなたこそ、メタルに接続可能なら、その軍用義体の機能をフルに使用出来ますよね?口封じに、僕をここで殺しますか?」 メタルに接続出来るこの場では、波留には人間含めた全ての電脳に対するハッキングが可能になった。しかし同時に、円にも軍用義体の全機能が開放されたのだ。 そのどちらも、充分に相手を攻撃出来る手段だった。そして、おそらくはどちらも、使い手の心持ちに拠っては致命的な方向へと容易に傾くだろう。 ――口封じが可能だからこそ、彼は僕にここまで素直に告白したのだろうか。 波留は、そのような更に物騒な推測すらしていた。 実際、メタルダイブ中のリンクの切断と言う手段でこの隣の男から自意識を現世から消失させられそうになった――未だその言質は得ていないが、ほぼ確定だろうと波留は思った――体験がある。ならば、今度は肉体的にも確実にその命を絶たれる可能性をも考慮したくもなった。 もっとも、それに対する反証が存在するとも、波留には判っている。そもそもこの相手には、彼を殺す機会を今までにいくらでも持てたのだから。 丸腰同然の人間を殺すつもりなら、必ずしも軍用義体を用いなくてもいい。襲う側に格闘術の覚えがあるなら尚更である。 そして今まで通ってきた荒野とは、それを実行するにはうってつけの場所だったはずである。この荒野ならば、第三者に目撃されず邪魔も入らない。そして証拠隠滅の謀すら必要ないだろう。逃げられないように車内で首を絞め上げでもして、事が済んだら打ち捨てて村に帰ればいいだけの簡単な話だった。 この時代における科学レベルでは、死亡した脳からも情報を引き出す事は可能ではある。しかしこの荒野の都市ではそんな技術を所持していないだろう。そもそもそんな物好きな人間が通りすがる場所でもない。 なのに、敢えてメタルに接続可能な地域を通り、しかもそれを教えてメタルダイバーたる彼に反撃の機会を与えるなど――本当に殺意があるなら、そんなヘマをやる訳が無い。 ――あなた…――御自分にも、人を殺せる自覚がおありでしょう? 不意に波留は、先日の酒宴の際に、当のジェニー・円からそう問われた事を思い出していた。 当初は、とんだ言い掛かりをつけられたものだと内心戸惑っていたものだ。 しかし、例えば久島の脳を初期化したあの技師に対して殺意を抱かなかったかと自問すれば、否定は出来ない自分に気付かされていた。結果的に彼は、自分の中に誰かに対する殺意もそれを実行出来る手段もあった事を、あの円からの問いで自覚した事になる。 そして円は、今もその殺意を指摘して来ているのだろうか。 自分を許せないなら殺すのか――そう問い掛けてきているのだろうか。 しかし波留としては、ここに至ってもジェニー・円と言う人物に対して明確な敵意を感じていない。 確かにあの研究を今尚続けており、その上、村人の信頼すら踏み躙っている現実を鑑みるならば、止めるべきではあるかもしれない。しかしそこに、あの技師に対して今尚感じるような殺意はなかった。自らが彼に先日殺されかけたにせよ、その感覚は変わらない。 ――仮に「それ」を行うならば、それは彼から攻撃を受けた時のみだ。 波留はそう思い、すっと目を細める。瞳に光が走った。 自らの電脳にダイアログを展開する。そのメニューにはハッキング用のプログラムがいくつも並んでいた。 ジェニー・円の電脳への接続コードは、7月末に勃発した気象分子プラントでの攻防時に波留の手に落ちた。無論セキュリティを考慮すれば、あの攻撃以降に円がそのコードを変更していない訳もない。 しかし一旦接点を確保した以上、新たなコード解読の糸口は波留に残されている事になる。最高レベルのメタルダイバーたる波留には、それで充分だった。 そして軍用義体がどれ程の攻撃力を持ち得ていようが、ここで彼から攻撃を受けるならば、確実に互いの身体が触れ合うだろう。その瞬間、こちらから接触電通を発動させればいい。思考の伝達とは、他のどの行動よりも圧倒的に速いのだ。 こちらのハッキングが発動するのが先か、それとも相手の攻撃でこちらの思考そのものが断絶するのが先か。どちらにせよ、一瞬で勝負は決まるだろう――。 そんな風に考えが纏まった頃には、波留の手からは微かな震えが止まっていた。 軍用義体から先制攻撃を受けて尚生きていられるかは謎ではあったが、それでも彼は自ら先んじて攻撃を下す気分には至らない。 それは甘いとかそう言う問題ではないと、波留は自己判断している。少なくとも、先制攻撃を受けたとの仮定において、「その気」が彼の中には充分にあるのだから。 疾走する車内の中、後部座席にて沈黙しているふたりは、相変わらず眼も合わせない。互いに腕を組んだ体勢のまま、俯いていた。そこには凍り付いた緊張感が漂っている。 そして、それは唐突に破られた。 車内にスキール音が響き渡り、急激なGが掛かる。乗客に負荷が掛かり、シートに身体が押し付けられた。車が派手にスピンターンを決め、横方向へも身体が振られる。 そしてその瞬間、弾けるような軽い音が一発響いた。 同時に車体後方のガラスに細かなひびが入る。黒いスモークガラスが一気にホワイトアウトした。 そして、車は沈黙する。タイヤや車体に土埃を煙らせた状態で、派手に轍を作り出して、荒野の片隅にて停車していた。 |