「――私には、それを成す理由が存分にありましてね。あなたに邪魔をされたくはなかった」
 何気ない口調を保ったまま、ジェニー・円が車内の沈黙を破った。
 彼の台詞は、相変わらず明確に何かを指してはいない。そして冷静かつ穏やかな態度である。しかし彼の視線は正面に向けられたままである。自らを告発してきた隣の男を、彼は決して見てはいない。
「私には、長年続けている研究があります。そのために、私はあの村を選んだ。水源が涸れた上に、メタルと接続する環境になく、住民の行き来も無い。完全に外部と隔絶しているあの村こそが、私の研究素材として最適だった」
 淡々とした口調で、彼はそう言い切っていた。義眼を煌かせ、冷徹な判断を表す。
 腕を組む波留は、顔を上げた。そう嘯く隣の男の顔を、思わず見る。
 黒髪の青年は、その時信じ難いものでも見るような顔をしていた。その心境がそのままに口を突いて出てくる。
「…そこまでして、何故」
「以前にも申し上げたはずです。水資源の枯渇は世界的な問題だと。地球をそこまでの状態に追い込んだ人間こそが、その責任を取らなくてはならない。私はその術を決して諦めたくはないのだ」
 僅かながらも動揺を垣間見せていた波留に対し、円は静かに答えていた。
 彼が述べた通り、その理念を波留は以前に耳にしていた。しかしそれは、ジェニー・円と言う科学者が先の研究に邁進していた最中に、それが内包する危険性に警鐘を鳴らした波留達に力強く反証した際に振りかざした信念に他ならなかった。
 しかし、今では状況は変わっている。その7月末に彼の研究は世界的に否定されるに至った。彼の研究こそが地球を危機に陥れ、人工島が築き上げた20年の信頼を地に貶めたのだ。それを購うために、彼は当時の地位と名誉とを失っている。
 そんな現在だと言うのに、彼がまたしてもその論理を振りかざしてくるとは――その信念が揺らいでいないとは、波留には思いも拠らなかった。
 だから、波留の表情は緩和しない。眉を寄せ、唇を噛み締めて隣から視線を外した。顔を伏せ、俯く。その波留の隣から、静かに台詞が続いてきた。
「私は先に失敗したから、それを鑑みた上で実験をやり直しているだけです。問題が発生したならば、その欠点を修正し、その上で長所を発展させるのが科学者の役目のはずです。私が前回失敗した理由は、水分子への過剰な干渉を知らなかった点にある。しかし私は大きな代償を払い、それを知った。だからその先へと進む事が出来るのだ」
 ジェニー・円の台詞は力強い。しかしそれは抗弁ではない。明らかな自信に裏打ちされた強い信念から発せられるものだった。声の響きがそれを表している。
「この村での実験を経て、機能を若干マイルドにすれば、水分子への干渉も過剰ではなくなるでしょう。そうすれば、実用にも堪えるはずです」
 失敗したら、やり直せばいい。
 その失敗した点を冷静に分析し改め、機能を発展させてゆく――どんな理論や科学技術であっても、最初から成功を約束されている訳ではない。
 技術を開発するのは人間故に、ミスの可能性は完全には否定出来ない。致命的なミスに対してすら、過剰な追及は科学の発展を萎縮させる元となりかねない。そうなってしまえば、結果的に人類の歴史において多大な損失を引き起こすだろう。
 物事に最初から完璧を求めるなど、それは神の所業に他ならない。科学の発展には犠牲は付きもの――この有り触れた定型句は世間の反感を買ってしまいがちだが、決して居直りとは言えない現実を含んでいる。
 ダイバーであると同時に海洋学者の端くれだった波留にも、そんな科学者の理念とプライドとは理解出来ない訳ではない。科学者の直感が人類の発展の一翼を担ってきたにせよ、彼らの考えが当初から全ての真実を射抜いてゆく保証もないのだから。
 だが今回のケースにおいては、悠長な事を言っていいのかとも思うのだ。このジェニー・円の研究成果が包括していた致命的なミスによって、海が文字通り燃え尽きそうになった前例があるのだから。
 今からそのミスを修正するからと言って、そのような研究を果たして継続していていいものなのだろうか。そして、それに気付いた人間が、それを見逃しても良いのだろうか――?
 波留としては、自身が愛する海との相性が最悪だった円の研究を否定したい。しかし同時に彼自身も持ち得ている科学者としての理念は、その邪魔をする。実の所、この科学者に自分が殺され掛けた現実は、彼にとって大した問題ではなかった。
「――私の行為に、何か問題でもありますか?」
 微笑みすら浮かべ、ジェニー・円はそう言った。そしてその彼の言動は、誰の反論も受け容れるつもりはないときっぱりと表していた。
 
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