ミナモはくらりと眩暈を感じた。ここは海中だと言うのに「立ち眩み」のような状態に陥る。このまま引っくり返るのではないか――平衡感覚を失い掛けた彼女は、そんな事を思った。
 身体が翻った挙句、何かに抱き留められたような感覚がした。そして口許に何か硬いものが押し当てられる――ミナモはそれを瞬時にレギュレーターだと察知した。
 彼女は本能的に右手でそれを掴み、口許に銜え込む。途端、そこから漏れ出してくる新鮮な空気を口に感じ、一気に吸い込んだ。これは無意識下の行動であり、彼女の身体がそれを欲していた。
 そうして何度も何度も空気を吸い込んでゆくうちに、ミナモの鼓動が落ち着いてゆく。減少した血中酸素を脳が必要とする分送り込もうとしていた心臓が、通常動作に戻って行っていた。ちらつく視界も鮮明になってきた。
 本当に波留に抱き留められている自分の状況に、ミナモは気付いた。
 完全に立ち直ったらしい彼は、ミナモを背後からしっかりと抱き留めていた。今まで受け渡されていたレギュレーターを、その手でミナモの口許に戻している。まるで奪い取るような感で、少女はそのレギュレーターを懸命に口許に追いやり呼吸していた事になる。
 その事実を認めると、彼女はまた今までとは別の意味で頭に血が昇ってゆくのを感じていた。生存本能とは何物にも優先するものではあるが、あまりにはしたない有様だと思ってしまったのだ。
 そんな少女の肩を、男性の掌がやんわりと撫でてゆく。そして、レギュレーターを持っていた右手をゆっくりと剥がした。装備をミナモの手に戻す。
 ミナモは首を巡らせ、背後の彼の顔を見た。彼は相変わらずウェットスーツとフィン以外の装備は身につけていないが、その表情は柔らかい。タンクが手元になかろうが、ゴーグルを嵌めてなかろうが、まるでそれが自然であるかのように微笑んでいた。
 彼女が思わず何かを喋ろうとすると、銜えたレギュレーターから空気が漏れた。一際大きな音を立て、空気が泡となって立ち昇ってゆく。
 ――波留さん、大丈夫?
 電通のやりようはないが、ミナモはそんな言葉を視線に乗せて波留に語り掛ける。大きな瞳がしっかりと年上の男性を見上げていた。
 それに、波留は微笑んで頷く。右腕を上げ、その手で丸を作った。肯定のハンドシグナルである。おそらくは、自分が言いたい事がきちんと伝わったのだろう――ミナモはそう解釈した。そう思うと、彼女自身も嬉しくなる。
 ミナモ自身も立ち直った事を確認したからか、波留はゆっくりとその腕を解いた。何かを言い聞かせるかのように視線を合わせたまま、身体を引き剥がす。
 どちらからともなく、ふたりは右腕を伸ばしていた。接近した状態のまま、お互いの手と手を合わせた。掌を重ね、指を絡め合う。深海の中でも暖かな相手の体温がそこから伝わってきた。
 電通が出来なくても、言葉を交わせなくても、手と手を重ね合わせれば繋がり合う事は出来る。
 ミナモはそれを知っていた。だから、これだけで充分だった。
 この半月近く、彼女は波留と会いたくてたまらなかった。謝りたい事があった。それを赦して貰いたかった。
 それらの気持ちを全てこの邂逅で満たされた気がした。この少女にとって、現状は紛れもない現実だった。
 不意にミナモの聴覚に、独特の鳴き声が届いた。
 それが何であるか、彼女は以前のうちに耳にした事はない。水映館でもその鳴き声までは展示再生されていなかった。しかし、今の彼女には本質的に理解が出来ていた。「声」が聞こえてきた光の向こう側に視線をやる。
 光を全身に浴び、流線型の海洋生物が素早い動きで泳いできていた。
 今まで何処に行っていたのかは謎のままだが、ともかくイルカがミナモの前に戻ってきたらしい。泳ぎつつもヒレを振る姿は、そのイルカ自身の喜びを表しているようだった。ミナモはその様子に笑う。
 隣の波留もそのイルカの方を見ていた。彼の横顔が楽しげに笑っている。
 ミナモに右手を伸ばしたまま、彼は左腕を上げた。掌をかざすと、そこに丁度頭が納まるようにイルカが辿り着いて来た。
 彼がその手で頭を撫でてやると、イルカが口を開けて歯並びの良さを晒す。まるでそのイルカも楽しくて笑っているかのようだった。
 するりとミナモの右手から、波留の右手がすり抜けてゆく。彼はやんわりとミナモから離れていた。
 ミナモは伸ばされたままの自分の手を見やる。多少は寂しい気持ちが心中に表れる。しかし、イルカと共に居る波留を見ていると、その気持ちは充分に埋められて行った。
 ――イルカさんが、波留さんを呼んだんだ。
 今のミナモには、そう理解出来ていた。
 離れつつも波留はミナモの方を見ている。そしてイルカも波留にじゃれつくような視線をやった後に、ふと気付いたようにミナモに双眸を向けた。
 そのふたりに、ミナモは大きく頷いた。
 それを合図にしたかのように、波留とイルカは共に海水を蹴り付けた。ミナモに背を向けて、光の向こう側へと泳いでゆく。
 寄り添うように泳ぎ進んでゆく波留とイルカの姿に、ミナモはまるで兄弟のようだと感じていた。同じ種族に見えてしまう――そもそも波留さんの息はどうしてここまで持つのだろう。私にレギュレーターを返して以降、全然息継ぎしていないと言うのに。
 自らに纏わりつくような、口から漏れる泡を感じつつ、ミナモはそんな事を思っていた。ゴーグルの向こうに見える視界では、もうふたりの姿は小さくなっている。
 不意に、ミナモは肩を掴まれた。強引に振り向かされる。
 至近距離に、心配そうな髭面の小柄な青年の顔があった。
 彼はミナモに視線を合わせ、必死に訴え掛けてくる――大丈夫か、嬢ちゃん!?少女に電通が使えたならば、そんな叫びが電脳に木霊していた事だろう。
 それを感じ取り、ミナモは笑う。今日何度目かのハンドシグナルを示した。
 ちらりと光の射す方を見やると、波留とイルカの姿はもう見当たらない。
 ――波留さん。待ってます。
 彼女は心中でそんな事を呟いていた。こんなにも穏やかな気分になったのは、何時振りだろうと思った。
 
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