――あの波留さんが、溺れるなんて事がある訳がない。
 自らが導き出したその可能性だが、ミナモ自身は真っ先に否定したい心境に陥っていた。彼女は今まで波留のダイブについてはメタルへ潜る姿しか見ていないのだが、波留は何時だってメタルの海を我が物としていたはずだった。
 しかし目の前の現実は明らかに異なっている。眼前に漂う波留の姿は、明らかに溺れた人間のそれだった――もっとも、これが「現実」と言えるのかは、彼女には未だに良く判らない。
 そんな、解釈しかねる現実を前にして、ミナモは今後こそパニックに襲われようとしていた。彼女は、自分自身への危機はまだ交わせたが、眼前の他者の危機となると自分からは類推する他ない。そしてその類推は果たして正しいのかは判らないのだ。
 しかも、自分が判断を誤れば、この波留にとっては致命的なものとなるだろう。自分にそんな責任が取れるのか――?絶対に、海への知識は、彼の方が圧倒的に詳しいのに?
 そもそも、こんな海中で一体どんな救護措置が可能と言うのか。そんなシミュレーションなど、自分はやった事もない。
 それでもミナモは、介助士の訓練にて日頃初歩の医療行為を叩き込まれている。彼女は反射的に眼前の要救護者の首筋に指先を当てた。呼吸が停止しているのは一目瞭然として、脈拍を取ろうとした。
 しかし、指先が震えて上手くいかない。或いは彼女自身の心臓が早鐘のように脈打ち、そこで他者の拍動を取ろうにも混じり込んでしまう。
 とにかく、落ち着かないといけない。
 ミナモはそう思い、意識して大きく呼吸をした。肩を揺らし、銜えたレギュレーターから新鮮な空気を吸い込む。かなり余剰な空気を担いで来ているとは言え、この深海では結構消費している気がした。海上に戻るまで持つだろうか――。
 そこで、彼女ははたと気付いた。ゴーグルの向こうで、両眼を瞬かせる。レギュレーターに触れ、右手でそれを押さえた。タンクの中身を吸い、吐き出す呼気がレギュレーターの隙間から海上へと立ち昇ってゆく。
 その泡をミナモは見上げ、見送った。そして、眼前に漂う波留の顔を見やる。光があまり届かない海底で見る光景だからか、彼の表情の無さがミナモには際立って感じられた。
 少女は決意した。眼を閉じて、レギュレーターを右手で押さえ、勢い良く空気を吸い込む。肺にたっぷりの空気を取り込もうとした。
 過剰な空気を取り入れた後、ミナモは右手に力を込める。口許に差し込まれていたそのレギュレーターをゆっくりと抜いた。途端、口の中に冷たい海水が触れてくる。ミナモは口を閉じた。
 手にしたレギュレーターをちらりと見る。そして眼前の波留の肩を掴んだ。更に自分の方へと引き寄せる。胸元に彼の頭を押しつけ、固定した。
 ふわりと漂う波留の長髪を、ミナモは左手で交わす。そしてその手で彼の頬に触れる。右手に掴むレギュレーターを近付け、彼の口許に押し込んだ。しっかりと定位置まで差し込み、噛ませた。
 1人用の装備なのだから、タンクとレギュレーターを繋ぐホースは然程長くはない。だからミナモは自ら担ぐ空気を分け与えるためには、波留に身体を寄せなくてはならなかった。胸に押し当てた彼の頭部をすぐそこに覗き込む。自分の口許から漏れて上がってゆく細かな泡が、少々邪魔に思えた。
 ミナモは波留の顔を観察する。――彼自身が空気を自力で吸い込んでくれなくては、これ以上、どうすればいいかもう判らなかった。
 しかし完全に溺れてしまっているならば、自発的に呼吸を復活させる事はあり得るだろうか?そもそも溺れているなら、水を飲んだ挙句に肺までが水で満たされてしまっている可能性が高いのだ。肺に空気を取り込む余地があるか、そこから更に酸素を取り込む能力を発揮出来るかも謎だった。
 だが、ミナモはその可能性に賭けるしかなかった。祈るような気持ちでその表情が無い顔を覗き込み続けている。今の自分には空気を補給する手段がないのも気にならなかった。
 不意に、波留の瞼がぴくりと動いた。
 それにミナモはすぐに気付いた。勢い込み、彼の顔に更に顔を近付ける。微かな反応さえも見逃さないようにした。
 少女が見守る中、うっすらと彼の瞼が開く。ゴーグルを装着していない顔のまま、ぼんやりとした瞳を覗かせた。ゆっくりと右腕が上がってきて、口許に当てられたレギュレーターに伸びた。ミナモの右手で押さえているそれを、更に上から押さえた。これは彼の無意識の動作らしい。
 波留の口許から泡が立ち昇る。喉が動いた。
 そのまま瞼が開いてゆき、瞳の焦点が合ってくる。その視線が、至近距離に居るミナモとかち合った。
 途端、波留はその両眼を瞬かせた。口許から泡が流れるに任せる。
 そんな彼を眼にしていると、ミナモは笑いが込み上げてきた――意識を回復した事に安堵したと同時に、状況が判っていないような表情を浮かべる彼が、何処かおかしかったのだ。
 もっとも、彼はつい先程まで溺れていたと思われる人間である。命の危険を脱した直後に笑うのは失礼だろうと言う自重はある。しかし、彼女の内面から笑みが自然に込み上げてきてしまっていた。それ程までに安堵したのだ。
 と、ミナモは慌ててレギュレーターから手を離す。被さっていた波留の手を払うように剥がし、反射的にその右手を口許に当てた。急に息が苦しくなってきたがための行為である。
 今までは波留の事しか頭に無かったが、こうして彼の安全が確保された事により、自分の現状に意識が向いた。すると、酸素が足りなくなってきている事をようやく自覚したらしい。
 頭に血が昇る心地がする。顔が真っ赤になっている気がした。顔を顰めるが、レギュレーターを手放している以上、新しい酸素を取り入れる手段がない。初心者とは、自分の限界を把握する能力すらも欠如しているものである。今の彼女は正にそれに当て嵌まっていた。
 
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