外と比較して暖かな気温を保っているゲストルームにて眠っている波留の表情は、穏やかそのものだった。
 外部からの刺激に一切反応を見せないと言う異様な事態を無視すれば、惰眠を貪っているようにしか見えない面構えである。もっとも、このままの状態で数日も経過すれば、どうしてもやつれて来るものだろう。あの長きに渡る眠りの記録からも、それは想定可能だった。
 円は未だにこの部屋に立ち、波留のその寝顔を見下ろしていた。
 村での今日の仕事は一段落着いている。そもそも彼が四六時中指導を行わなければならないような段階は、そろそろ通過しても良い頃合いだった。この村に逗留し農業指導を開始して4ヶ月目にもなるのだから。
 別室では、彼の秘書と彼の知己の医師とが打ち合わせを行っているはずだった。
 彼らは、この村と比較してそれなりに栄えている都市に存在する病院に波留を運び込む算段を立てている。村に存在する車の後部座席を改造すればどうにか病人を寝かせたまま輸送出来そうだとか、その間の処置はどうするかとか――そう言う話を行っている事だろう。その辺りの心配は、彼はしていない。彼女なら上手くやるだろう――そう思っていた。
 また、久島君と会う夢でも見ているのか。
 安らかな波留の寝顔を見下ろしつつ、円はそんな事を思う。彼の脳裏に思い返されたのは、あの7月末に敢行された超深海ダイブのレポートだった。
 「海の深層」と呼ばれる場所で、彼は久島君と再会したそうだ。あのレポートにはそんな事が書いてあった。
 ――そんな場所など、ある訳がないのに。
 君は、自分が眠っていて喪った、50年前の続きを垣間見たかっただけだろうに。
 だが、それは間違っている。私は断言出来る。
 君にとっては夢の彼方の50年間でも、私にとっては紛れもない現実がそこに存在したのだ。
 そのような思考を進めて行くと、彼の脳裏にまた弾けるように記憶が浮かんでくる。それは、3日前に彼が波留と取り持った会食での一幕だった。
 ――あなたが、僕の代わりに久島を見守ってくれていたのですね。ありがとうございます。
 あの晩、酒を酌み交わす中、波留はそう言い、彼の前で微笑んで頭を下げていた。波留にとってはこの上ない感謝の気持ちの表れのはずだった。それは円自身にも推測は可能だった。
 しかし、その波留の台詞を生脳に保存した記憶から再現すると、円は静かに眉を寄せてゆく。微細な動きではあるが、それは確実に彼の内心を表していた。
 ――その50年間は、久島君にとっても現実だったはずだ。
 彼の内心に、その言葉が走る。
 無言のまま、静かに自らの右手を持ち上げた。半ばまでに開いた掌をじっと見やる。その自らの掌と、安らかな波留の寝顔とを、彼はふと見比べた。
 自らの願望を満たせる夢に浸りたいのならば、いっそ2012年からずっと目覚めなければ良かったのだ。
 君が目覚めなければ、久島君とてあのまま、私と同じ道を歩み続けてくれたはずだ。
 私は、今でもそう信じている。君が過ごさなかった50年の重みとは、そう言うものだ。
 その瞳が徐々に闇を帯びてゆく。元々表情に乏しい義体を用いている彼だったが、その印象が際立って行った。
 彼は、右手を伸ばした。その先にある波留の顔に、彼の指が触れる。義手に感じる生身の人間の体温は暖かかった。
 そのまま、掌で波留の顔を覆ってゆく。彼の大きな掌は、眠っている男の目許を隠すには充分だった。





 ――50年を経て老人と成り果て、朽ちる寸前だったと言うのに。
 君さえ居なければ。
 未練がましくこの現世に舞い戻ってこなければ。
 ――私は、久島君に、あのような真似をしなくて良かったはずなのだ。
 その掌に力が込められてゆく。
 
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