先程のミナモの宣言は、間違ってはいなかった。
 彼女は水を怖がらず、ゴーグルの向こうの視界にも慣れていた。レギュレーターの使い方も前回から忘れていなかったし、耳抜きの必然性もきちんと判っていた。アユムの誘導に従い、着実に深度を稼いでゆく。
 初心者のミナモは垂らされたロープを伝い、一定の深度まで進んでゆく。そうして自分の深度をきちんと把握した後にロープを離し、海底で色々な訓練を行う――それが今回のダイビングの目的だった。
 2回目のダイブと言う事もあり、おっかなびっくりとの態度ではなくなっている。それでいて慢心の要素も見られず、いい初心者の態度だとアユムは思わざるを得ない。前回のダイブが6月で今回が11月なのだから、丁度いい間隔だったのかもしれない。
 未電脳化者であるミナモとの意思の疎通は、ハンドシグナルを用いる他ない。電脳化しているダイバー同士ならば、陸同様に電通でやり取りが可能だった。アユムとしては初心者相手にこれでは少々不安がない訳でもなかったが、そもそもミナモの要望で50年前のスタイルを選んでいるのだから今更である。
 ――やはりアレは、カラ元気ではなかったのかもしれない。
 着実に潜ってゆくミナモの横顔を見守るアユムは、心中でそんな事を思う。
 気分が空回りしているなら、潜る動作も何処か怪しくなるはずである。しかし今のミナモにはそんな挙動は全く見られない。ならば彼女は、落ち着いて決心してこのダイブに臨んでいると思われる。
 ――波留さんが本当に帰って来るとすれば、俺がこの子を責任持ってダイバー中級者までには育てておきたい。
 この子がそんな段階に至っていれば、波留さんの過剰なリードなしに、ふたりで一緒に潜れるだろう。存分に海中を楽しめるだろう――。
 海上に泡を吐き出しつつ、アユムはそう思った。それは彼なりの決心だった。
 そんな事を考えつつ、ロープを伝って潜行していた時だった。
 アユムの眼前に手が振られる。ちらつくその動作をゴーグルに映し、彼はようやくそれに気付いた。
 彼と対面状態で潜って行っているミナモが、自らのインストラクター兼今回のバディに対してアピールしている。その状況に気付き、アユムは右手で丸を作ってみせた。ハンドシグナルの一種である。
 彼が意思表示を見せた事で、ミナモも頷く。彼女はゴーグルの奥で瞳を更に大きくし、右手で向こう側を指差して見せた。その指先を、アユムは怪訝そうに見やる。首を巡らせて確認した。
 彼らがロープ伝いに潜っている場所は、人工島の沖合いである。重りを括り付けて落としたロープが数10m程度の深度の海底に着地してしっかりと伸びていて、彼らは四方を紺碧の海に囲まれたまま潜っていく――はずだった。船を出して沖合いに向かった以上、陸地は遠い。
 しかし、ミナモの指先の向こう側には、なだらかな斜面が広がっていた。
 数10mの深度よりも更に深く、海底が続こうとしている。ダイビングショップによって用意されたロープはその海底に接地しておらず、重りをぶら下げたまま所在無げに揺れていた。
 ――これ、どういう事ですか?
 アユムに向かい合うミナモの瞳は、正しくそう語りかけている。大きな瞳が疑問を満載し、バディへと向かっていた。
 しかし当のアユムも首を捻ってしまっていた。
 ――こんな場所、ある訳ない。
 人工島の海底は文字通り人工的に造られた代物である。建設されて以降潮汐力で削られる事はあるだろうが、その度に人工島を運営する電理研によって多少は補修されているはずである。まさか、こんなに海底へと向かっていく訳が――。
 そこまで考えた時点で、アユムには思い当たる記憶があった。
 それは、7月末。帰還した波留と共に潜った時の事だった。
 あの時も、何故か彼の眼前に「海底」が広がっていた。このようにきちんと珊瑚に覆われ、長い期間を経て形作られた自然の産物のような海底が唐突に現れたのだ。
 あの時――波留さんは独りで「海底」の先へと潜ってしまった。
 その先には、何があったのだろう。
 俺はそれを知らない。しかし、確か波留さんと一緒に――。
 その時だった。
 アユムの傍らでロープを掴むミナモの顔が、加速度的に輝いた。そして彼らの居る深度から更に奥深くから、泡が立ち昇ってくる。ロープに絡み付くような泡は徐々に増えてゆき、そして僅かな海流がロープを揺らし――。
 彼らの傍らに、その流線型の存在が、姿を現した。
 それを目撃したのは、ミナモは初めてであり、アユムは2回目であるはずだった。
 
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