寒々しい内陸部の寒村でも暖房設備が稼動していれば、屋内はそれなりに快適である。
 しかしそれは生身の人間達のための設備であり、全身義体たるジェニー・円にとっては室温調整は然程重要ではない。彼は軍用義体を用いてもいるため、通常義体よりも多少厳しい環境におかれても稼動は可能だった。
 彼は、その室内にて無言で横たわっている生身の人間を見下ろしている。測定室温の状況を見るにこの部屋に暖房は効いており、更に肩から毛布を被っていれば寒くはないはずだった。しかし、その「病人」が目覚めて自己主張しない以上、それは客観的な判断に過ぎない。
 ――彼は「病人」との建前で、全ては進行している。
 専門の医師が初診しての、お墨付きも貰った。おそらくは明日以降に医療施設で検査された所で、その結論が変わる事もないだろう。
 円は、自らが導き出しつつあるその状況を静かに把握していた。
 ここには「メタルが存在しない」。その常識が確立している。この村の周辺地域では通信分子が全く測定されない環境である。
 だから、医学的には原因不明の意識喪失であろうとも、ブレインダウン症例などと言う可能性を、医師であろうが提示する人間が居る訳がない。ここにはメタルが存在しない以上、意識を喪失した人間がそんな状態に陥っている事など、あり得ないのだから。





 ――状況が良く判らないが、波留真理さんがこんな所で眠ったまま、目覚めないようだ。
 11月11日の陽が昇り切った頃に、朝の所用を終えた様子で庭に戻ってきた自らの秘書に、ジェニー・円は四川語でそう告げていた。
 彼は庭の一角を占めている古木の元に立っていた。その根元には、巨木に寄り添い眠っているらしき黒髪の青年が居た。
 ――…ミスター。それは一体、どう言う事でしょうか。
 一瞬口篭った後に、秘書は静かに、同じ言語を用いて主に問い掛けた。しかし彼女の主も、その状況を理解していない素振りを見せるのみだった。
 だから彼女は主に一言断って彼を押し退け、自ら波留の元へ跪いた。そしてあくまでも無表情のままに淡々と脈拍を取り、呼吸を確認して行く。
 その様子を、円は無言で見ていた。そのうちに簡易診断にも気が済んだらしい。秘書が顔を上げ、告白する。
 ――…些細な事と判断致しましたのでミスターには御報告しておりませんでしたが、波留様は体調を崩されておいででした。何でも頭痛との事で…。
 ――ああ…。
 秘書のその台詞を聴き付け、彼は鷹揚に頷いた。顎に手を当て、考えつつも口を開く。
 ――不幸にも、そう言う事なのかな…彼にとっては本当に長旅だったろうからね。肉体は見た目上若かったのかもしれないが、実年齢を考慮すべきだったかもしれない。
 主のその言葉に、秘書も頷いた。無言のままにその意見を肯定する。頷き顔を上げる秘書と、それを見ていた円の間に、刹那の視線が交錯する。
 その一瞬の間の後に、主が口を開いた。
 ――なら、近郊の都市から医者に来て貰おう。私の知己が居る。彼の腕は確かだ。
 ――そうした方が宜しいかと存じます。早急に私が車を出してお医者様を送迎致しましょう。
 その申し出に、秘書は淡々と答えた。そして自らが成すべき事をすぐさま口に出していた。それに主も頷き、許可を出す。彼女は当面の方針を決し、即座に行動しようとしている。主の前に、有能さを存分に発揮していた。そんな彼女の動きには、主は感嘆の念と共に、満足感を抱く。
 ――…私が常々、波留様の動向を把握しておくべきでした。私がそれを怠ったが故に、結果、こうして取り返しのつかない事態に――。
 作業の最中に無表情な秘書が口にしたその自責らしき述懐は、主が彼女の肩に右手を置いた事で遮られていた。
 ――私の秘書に過ぎない君が気に病まなくていい。これは、ホストたる私の責任だ。
 その、穏やかな口調で言い含めて来る台詞に、秘書は何も返さなかった。只、自らの肩に置かれた主の手を、ちらりと見やっただけだった。その瞳には感情らしき光は一切垣間見えない。
 彼の秘書が声に出したのは、そう言う話題のみだった。





 ――メタルに意識が解けた場合、そのリミットは8時間だ。それが現在のこの世界の常識だ。
 そのリミットを越えてしまえば、人間の自意識と脳を繋ぐリンクラインすら全てメタルに流れ果てる。そうなれば、自意識は最早脳に戻らない。戻った前例など、メタリアル・ネットワーク稼動40年の歴史のうちに、1件も存在しない。
 波留真理が意識を喪失したのは、11日の早朝だ。
 そして今、既に12日を迎えてしまっている。
 かと言って――我々はむざむざ手をこまねいた訳ではない。「そんな可能性などあり得ない」からだ。
 そしてこの村は僻地だ。優秀な秘書が可能な限り早急に医療手段を手配したにせよ、1日程度のタイムラグは避けられないのだ。
 ――何が起ころうとも、どんな奇跡があろうとも、最早手遅れだ。
 波留真理は二度と目覚めない。ここで醒めない夢に浸ったまま、今度こそ朽ち果ててゆくのみだ。
 安心するといい。その日を迎えるまで、この最果ての地で、この私が君をちゃんと責任持って生かし続けてやる――。
 決して外部に漏れるはずのない思考の渦中のみで、ジェニー・円はそんな事を嘯いている。
 彼は目の前で眠り続ける波留真理を見下ろしている。その瞳の色は冷徹そのものだった。
 
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