常夏の島たる人工島では、11月を迎えたにせよ海水は酷く冷たくはない。一貫して高い気温から体温を程好く冷やすだけの水温を保っていた。
 地球温暖化が進んでいる2061年現在であっても、北半球の他の地域ではマリンスポーツを楽しむには厳しい季節を迎えつつある。南半球へと足を伸ばせば逆に常夏ではあるが、人間達はもっと近場で海を楽しもうとするものだった。
 人工島の入島許可の基準は厳しい。入植者のみならず一時滞在者に過ぎない観光客相手であっても、その基準は大して緩和されない。この島はそうやって治安を維持している一面もあり、7月末のテロを受けて一層厳しさを増していた。
 それでも島を訪れる富裕層やそもそもの島民を相手に、マリンスポーツ産業は稼ぎ時を迎えつつある。ダイビングショップもその一員だった。
 しかし今日、11月12日のドリームブラザーズの業務は、それには当て嵌まらない。厳密に言えば確かに「お客」を迎えてはいるのだが、そこに金銭の授与は一切発生していなかった。
 インストラクターのフジワラ兄弟の賃金はおろか、使用機材代すら請求しようとはしていない。それは兄弟自身の意思だった。
 ――どうして一介の女子中学生から金を巻き上げられようか?兄たるアユムが強硬に弟ユージンにそう主張し、弟は結局その主張に折れていた。
 弟とてその主張に理解を示していない訳ではなかった。とは言え、全くの無料と言うのも却ってどうなんだろう――恐縮しきった少女の態度を目の当たりにすると、彼はそうも思いたくもなる。
 ともかく彼ら兄弟とその蒼井ミナモを乗せたダイビング用のクルーザーは、人工島の沖合いへと至っていた。
 そこは彼らの定番ポイントである。ミナモも過去に彼らと共に1回潜った経験がある場所だった。彼女は初心者ではあるが、全くの未経験ではない。だから兄弟からの指導も復習がてらと言った感があった。
 2061年現在におけるダイビングスタイルは格段に進歩している。しかしミナモは「50年前のスタイルでお願いします」と兄弟に注文をつけていた。それは前回のダイビングと同様の条件である。
 兄弟はその注文を普通に受け取った。2061年レベルのダイビングはやはり電脳化を前提にしたようなスタイルのため、未電脳化者であるミナモには若干荷が重いからである。そして前回も50年前のスタイルで潜っている以上、今回もそれに倣った方が慣れている分安全だった。
「――じゃあ、嬢ちゃん。準備はいいか?」
「はい!」
 船上にて威勢良く呼び掛けるウェットスーツ姿のアユムに、同様の装備を身に付けているミナモは元気に頷いた。彼女は長い髪を纏めて上げ、スクーバ装備のタンクを背負いそこに繋がるレギュレーターを肩に提げ、顔をマスクで覆っている。足にはフィンを装着していた。
 弟ユージンは奥で操舵を担当している。船上で彼らを待ち構える役目も担う事となっていた。何かあった時のため、彼もウェットスーツを着込んだ状態で準備はしている。
「忙しい嬢ちゃんには、いい気晴らしになると思うぜ?」
 船の縁でアユムはそんな風に話し掛ける。彼もこの少女との付き合いは4月から保っている。波留の事務所はこのドリームブラザーズの下に存在し、ミナモはそこでバイトしていたのだから。
 彼らは当時から、電理研委託メタルダイバーとして波留と共に仕事をしている。或いはその事務所でトラブルでもあったらしく、違法に横流しされた公的アンドロイドが殴り込みを掛けてきた際、波留の不在だったために彼らがミナモ達を助けに向かった事もあった。
 だからアユムは波留の事を知っているし、このミナモの事もそれなりに把握しているつもりだった。そして彼らの現状がどんな事になっているのかも――。
 先日のうちに波留から預けられているシュレディンガーは、暢気にドリームブラザーズで伸びている。その猫は、飼い主の不在もお構いなしで惰眠を貪っていた。彼は「真実」を知った人間達の動揺など知った事ではないらしい。
 現在その猫は、きちんと戸締りされた店舗の床で眠っている。流石に万一の事があってはいけないので、人間達は彼を船上には連れてきていなかった。その猫も超然と人間達を見送っていた――ダイビングの準備のために周りでいくらどたばたとやられようが寝そべったまま全く動こうともしなかった様を、最大限に良い方向に解釈するなら、そんな表現になる。
「――そうですね。こうやって船の上から見る海も綺麗ですし…海の中となればまた格別なんだろうなあ――」
 船上の少女はアユムに相槌を打ちつつ、目を輝かせてそんな事を言っていた。彼女の眼前では、昼下がりの太陽を全面に受けた海が穏やかに波打ち、煌いている。
 そんな女子中学生の横顔を、インストラクターはちらりと見た。成人男性にしては小柄な彼は、その少女と背の高さは殆ど同じだった。
「――えーと、嬢ちゃん?」
 アユムは口許に微妙な笑みを浮かべ、ミナモに声を掛けた。それに、少女は向き直る。
「はい?」
「…あんまり、無理すんなよ?」
 言い募るアユムの口調は、何処か歯切れが悪い。それにミナモは怪訝そうな表情を浮かべる。
「え?」
 ミナモは小さな声を上げ、首を傾げた。何がどういう訳なのか、良く判らない――その心境は、彼女の顔からも良く伝わってくる。
 だからミナモは、とりあえず、心配されているらしき事について、誤解を解こうとした。苦笑を浮かべ、弁解紛いに告げる。
「私、この前きちんと潜れたから、今回も大丈夫だと思いますよ?学校の授業でも、少しは泳げるようにもなりましたし」
 ――四方が海の人工島に住んでいるのにカナヅチだなんて、確かに変過ぎる。でもそれは今まで育ったのが内陸部だったから泳ぐ機会がなかっただけであって――人工島に来てからは水泳の授業もあるしビート板で段々水にも慣れて来たし――と、ミナモの心中はそんな感じだった。
「いや、そう言う事じゃなくてさ…」
 そんな彼女に、アユムは相変わらず歯切れ悪く答える。表情も微妙な色を醸し出したままだった。
 ミナモはアユムをきょとんとした表情で見つめた。しかしそれも一瞬だった。すぐに少女はふんわりと微笑む。照れ笑いのような、それでいて爽やかな風を感じさせる笑顔を浮かべた。
 それはアユムに向けたと言うよりも、彼女の心中から自然に発せられた表情だった。脳裏に浮かんでいる事を思うと、そう言う顔になってしまっていた。
「――皆頑張ってるから、私も自分に出来る事から始めなきゃって思ったんです」
 笑顔のままに、ミナモはそんな事を言い出していた。
「私、波留さんが戻ってくる頃には、もっと上手く潜れるようになっていたいんです」
 直接的にその人名が少女の口からもたらされた。それに、アユムは眩しそうに目を細めた。
 この子はそれを信じているのか。
 彼の中に浮かび上がったのは、そんな考えだった。
 そしてそんなにも真っ直ぐに信じ続けられる少女を、単純に偉大だと感じていた。しかし、それがこの子の「当然」なのだろう――。
 船上の彼らには、静かな潮騒が四方から響いてくる。
 
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