件の室内は質素な独り部屋だった。窓際にはシングルベッドがあり、そこには長い黒髪を解いた青年が横たわっていた。
 彼の顔の上から人影が射す。ベッドの前に立っている白衣の男が手を伸ばし、彼の首筋に触れていた。喉元を伝い、触診を試みている様子である。
 それから毛布を持ち上げて、横たわる彼の右腕を取る。着ているシャツの袖を捲り上げ、手首で脈拍を取る。数分間そうした挙句、再びその腕のシャツを下ろし、毛布の中へと腕を戻してやった。
 その間、診察を受けている彼は一切反応を見せない。腕を掴まれ肌に触れられようが、瞼を伏せたままで眠っていた。その顔色は良く、安らかに眠っているようにしか見えない。
 しかしこの状態が続けば、それも悪化するのは目に見えていた。食事を摂れない状況なのだから。今はまだ、1日経過しただけなのだから、それが表面化していないだけだと医師は認識していた。
 壮年の医師は額に手を当てた。溜息をつく。そして後ろを振り返った。そこに立つ、今回の依頼主に診察結果を告げようと試みた。
「――本当に、眠っているだけにしか見えません。脈拍も呼吸も良好ですし、頭を打ち付けたような跡も見当たりません」
 語りつつも、その医師は明らかに困惑していた。それを隠そうともしない。
 医師に相対している男は、室内だと言うのに黒いコートを羽織っている。彼の表情には何ら感情が映し出されていない。強面の顔で無言のままに頷き、医師にその先を促していた。
「しかし、どんな働きかけを行っても1日以上目覚めないとは、明らかにおかしい。彼は決して健康体とは言えないでしょう」
 四川語にて医師はその結論を吐露した。彼の顔立ちはアジア系に属する容貌ではあるが、この村の人々に一番近い。この国の首都の住民達とは微妙に異なっていた。外国人とは較べる余地もない。
「それではあなたはどう考えますか?」
「脳に何らかの疾患をお持ちか…それが第一の可能性と考えます。しかしこの村での限定的な診察では何とも言えません」
 依頼主に問われた医師は、答えつつも首を横に振った。徒労感が態度から染み出している。彼としては結論を見出せないとは情けない限りではあるが、情報が不足している以上仕方がないと自己弁護したくもなる。
 この村には医療機関が存在しない。常駐する医師すらおらず、異邦人たる指導者達が持ち込んだ薬に頼るしかないのが現状だった。検査用の機材が用意されていないのでは、いくら医学を修めた人間にも出来る事には限界がある。彼はそれに直面していた。
「そうですな…」
 黒コートの男は呟きつつ、腕を組んだ。医師の所見から、何かを考えている様子である。それを医師は窺っていた。
 その思惟は1分にも満たないうちに終了していた。彼は腕を解く。表情には感情を表さないまま、口を開いた。
「――ひとまず彼をあなたの病院に移送して、改めて診断して頂いた方が良さそうですな」
「…そうして頂けるとありがたいです」
 もたらされた返答に、あからさまに医師は安堵した。ほっとした表情で溜息を漏らす。自分の病院で検査出来れば、また違った結論を見出せるはずだったからだ。彼にはそれだけの自負があった。
「幸いにもうちの病院に空きはありますし、他ならぬあなたとの縁です。彼には最善を尽くすと約束しましょう」
 医師は自らを鼓舞するように強く頷いた。眼前の人物に宣誓し、両手を差し出す。
「ありがとうございます。こちらとしても客人たる彼が倒れたとあっては、名折れですからな」
 黒コートの男はそう言って微笑み、医師から差し出された手を握る。実直そうな医師の表情が緩んでいるのが垣間見えた。
 そんな彼らに、部屋の隅に控えていた女性が深く一礼する。色の薄いショートヘアの頭を下げ、淡々と告げた。
「――それでは、車の手配を致します」
 彼女はそれだけを言い、返答を待たなかった。伏し目がちのまま、滑らかに姿勢を正す。
 傍らに居たその女性の存在を思い出した医師は、その彼女にも視線を向ける。感謝を表した顔のまま、何事かを言った。その客人に対し、彼女は軽く目礼したのみである。僅かにでも口許を動かす事もなく、笑顔も浮かべなかった。冷たい雰囲気を漂わせている。
 そんな彼女に、医師は若干怯んだような素振りを見せる。しかし秘書たる女性はその印象を正そうとはしなかった。無言のまま、扉へと向かう。礼儀だけは保ったまま、静かにこの部屋から退出しようとした。改めて一礼を残し、後ろ手にノブに手を掛ける。
 瞬間、彼女は微かに怪訝そうな表情を浮かべた。回したノブの動きを手首で保ったまま、静止させる。
 そして、僅かにノブを引く。内開きの扉に隙間を生じさせた。
 外側から押される感覚が、彼女の手首に伝わってくる。そして隙間の下の方からは、黒髪の頭が垣間見えた。
 つんのめったような感があるその頭がふらついた後に、立ち直る。ゆっくりとその顔が上がると、上から見下ろす秘書と視線が合う。
 不安げに揺れる子供の大きな瞳が彼女を見上げていた。その視線を受け止める彼女の口が僅かに動く。四川語で何事かを囁くように声を発していた。
 部屋の出入り口で何事かやっている自らの秘書を、ジェニー・円は横目でちらりと見た。しかしそれ以上の事はしない。眼前の知己の医師に対し、改めて微笑んだ。
 現状は、彼が目論んだ通りに進んでいる。しかし彼はその想いを、義体の表情には出さないように心掛けていた。有史以来の鉄則――顔芸並びに腹芸を徹底させるのみである。
 「この地域にはメタルが存在しない」以上、外部に思考が漏れる訳もないのだ。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]