それから義体は席に戻っていた。ミナモはその様子を再び注視していたが、彼の動きは滑らかである。成人男性の歩みそのものであり、特筆すべき点は何もない。
 普通にデスクの後ろに回り込み、普通に椅子を引いてその席に腰を下ろす。ごく当たり前の動作だった。しかしほんの10日前の彼には全く不可能だったはずの動作である。それを思うと、ミナモはしみじみとした心境に至ってしまう。
 ミナモもデスクに歩み寄る。左手首にゴムを引っかけた状態で、デスクの上に広げられたままになっていた折り紙に視線を落とした。
 先程自身が広げたそれに、ミナモは再び手を伸ばす。脳内で折り方を反芻しつつ、鶴を折ってみる事とした。彼女はオーストラリア育ちではあるが、同居していた日本人の祖母が色々な遊びを教えてくれていた。様々な折り紙もそれに当たる。
 その中でもメジャーな鶴は、確かにリハビリでも使用される折り方である。幼い頃の体験と現在の介助士としての訓練とで、彼女には手癖として叩き込まれていた。
 眼前で着々と折られてゆくその紙を、義体は無言でじっと見ていた。無表情な顔からは何も読み取れない。折られた紙が鶴らしき姿を見せ始めた頃、その唇がぼそりと動いた。
「――波留真理は現在、人工島に居ないそうだな」
 その言葉にミナモの手が止まった。羽や胴体が形作られ、後は頭を折るだけの時点の鶴がそこにある。
「AIさんも御存知だったんですか」
 ミナモは手元から顔を上げ、久島の義体の顔を見て言った。彼女の台詞には意外そうな響きがある。この部屋から出ていけないらしい彼が、どうしてそんな事を知っているのだろう――。
 そんな彼女に義体は視線を合わせる。その疑問に答えるべく、口を開いた。
「部長代理が私にその情報を寄越してきた」
 ――ソウタってば、こっちには色々と喋るなとか言ってるくせに。融通が利かないはずの兄がこのAIに対しては様々な情報を横流ししている事実を知り、ミナモは少々むっと来た。
 とは言えこのAIは口は充分に堅いだろう。設定上そうなっていて然るべきであるし、彼を「個人」として捉えているミナモの実感も正にそうだった。
 義体はミナモから視線を外す。彼女の手元にある、完成直前の折り鶴を眺めた。彼女が折る以前から折り目がついて皺が寄っていた事もあるのか、多少いびつな折られ方だった。しかし手本にするようなレベルには達している。
「――…彼は戻って来ないかも知れないな」
 義体の口から静かに導き出されたそれは、半ば述懐のような台詞だった。人間に問い掛ける訳でもなく、AIが自らの想いを口にしただけのようだった。
 ミナモは不思議そうな顔をした。きょとんとして彼を見る。そして、優しい印象を漂わせ、微笑んだ。
「ちょっと時間掛かるかも知れないですけど、きっと戻ってきますよ」
 ミナモはやけに平然と、微笑んで言う。まるでそれが当然のような顔をしている。その態度を、このAIは怪訝そうな顔で見やる。そのまま、問い掛けた。
「君は彼を信頼しているのか」
「そりゃあまあ…――AIさんには敵わないと思うけど」
「…私か?」
 台詞の最後に付け加えられたミナモの感想めいた意見に、義体は問い返す。それにミナモは笑顔のまま、頷いた。問いに答える。
「だってAIさん、波留さんの事信頼してるって言ったじゃないですか。あの時」
 ミナモの脳裏には、あの時の光景が思い浮かんでいた。――この義体に乞われるままに病院服からこのスーツに着替えさせた際のやり取りが再現される。
「ああ…――」
 義体も自らのAIからその記憶を導き出していた。――久島永一朗の記憶が、波留真理は信頼に値すると告げている。それは彼にとってこの上ない根拠だった。その時そう結論付けて、彼はミナモにそう言ったはずだった。
「そして実際に、何も打ち合わせ無しにあんな事しちゃったし。素敵だと思います」
 彼の眼前の少女は微笑んでそんな事を言っている。確か、似たような事を以前にも言われているはずだった――私がこの部屋に戻される直前だったか?
 果たして、どうだったか――記憶を検索しつつ、その義体は視線を落とした。何気ない風に、肘から上をデスクに置いていた自らの左手を見やる。
「――あー!!」
 そこに、ミナモの頓狂な声が響き渡った。
「AIさん!そのダイバーウォッチ!」
 慌てて叫ぶミナモを彼は不思議そうに見上げる。が、指差されるままに彼はそれを見た。
 彼の左手首には、黒基調のダイバーウォッチが嵌められている。手首に巻かれるベルトは新品そのものに対し、本体のプラスティック樹脂は何処か焼け焦げた風に痛んでいた。アンバランスな状態である。
 ミナモはそこを覗き込むように前屈みになっていた。声を荒げ、矢継ぎ早に指摘する。
「盤面が割れちゃってるじゃないですか!」
「…ああ、そうだったか」
 多少耳に煩い少女の甲高い声が具体的に指摘してくれたおかげで、義体はようやくそこに想いが至っていた。視線をそこに向ける。
 本体の時計部分の液晶盤面に、微妙にひびが入っていた。強く叩き付けでもしたのか、圧力と衝撃に負けてしまったかのような状態だった。
 ミナモは眉を寄せ、彼の左手を取る。その盤面に顔を近付け、唇を尖らせた。まじまじと見つめ、そのひび割れを瞳に映し出す。
「ホロンさんが修理に出してくれてたのに、何でまた壊してるんですかー…あ、もしかして車椅子から落ちた時かな?」
「…おそらくそうだろうな」
 ぼやくように言うミナモの言葉に、そのAIはぼそりと返した。――嘘はついていないはずだった。或いはこの少女の今の台詞は述懐であり彼に問い掛けてはいないのだから、仮に嘘をついても彼のAIには何ら負担にはならないはずだった。
「また修理に出さなきゃいけないですね。ホロンさんは前の業者さんを知ってるんだから、またお願いしましょう」
 ミナモはそう言い、独り納得したように頷いている。話を進めて行こうとした。傍らのソファーに視線を向ける。そこに置いていた大きな鞄に収まっている携帯端末を取り出すべく、一歩を踏み出そうとした。
 そこに、義体が声を掛けた。
「――…いや、構わない」
「え?」
 相変わらず静かな口調だったが、そこには厳然たる拒絶が見え隠れした。少なくともミナモにはそう感じられた。だから彼女は、首を傾げた。振り返る。
「盤面が割れてはいるが、データ表示には支障がない」
 彼はそれだけ言った。右手でその本体に触れる。側面に位置する起動スイッチを押した。
 瞬間、液晶画面に光が走る。起動メッセージが続々と表示され、画面を流れてゆく。そして1分も経たないうちに、現在時刻へと表示が移っていった。それがこのダイバーウォッチのデフォルト画面である。
 液晶の一部がひびわれてはいるが、表示部には影響がないらしい。数値などの表示は通常通りで、読めない状態にはなっていなかった。画面を凝視していたミナモはそれを把握する。
 確かにこのAIの言葉は正しい。しかし、この少女には何処か気に掛かった。顔を上げ、何かを言い掛ける。
「でも――」
「蒼井ミナモ」
 しかし義体は彼女の台詞を遮った。顔はダイバーウォッチの盤面に向けたまま、言う。
「私からの用件は済んでいる。わざわざ呼び出してすまなかった」
 俯いたままの義体の頭をミナモはぼんやりと見下ろしていた。彼女には、話の展開がいまいち掴めない。その彼は更に続ける。
「君も忙しかろう。夜が更ける前には、自宅に帰りたまえ」
 ミナモは口を噤む。――ぶっきらぼうではあるが、気を遣われているような口調ではある。それはいつも通りの「彼」の態度だった。ミナモにはそれが判っていた。
 しかし、今回に限って、何かが違っていないだろうか?何だか、力一杯拒絶されている感が――。
「――…判りました。私、帰りますね」
 しかしミナモは少しだけ微笑み、そう言った。軽く頭を下げて、デスクを離れる。傍らのソファーに置いていた鞄を取り上げる。
「じゃあまた、メールします」
 振り向いて告げたミナモのその言葉に、義体は無言だった。只俯いているのみだった。
 義体のその態度にミナモは首を傾げた。とりあえずは挨拶の言葉を投げ掛け、出入り口へと向かう。そのコンソールに携帯端末をかざし、パスを送信した。すると静かに扉が開いてゆく。廊下の照明がうっすらと染み入るように室内へと注ぎ込まれてきた。
「――くれぐれも、気を付けて帰ってくれ」
 その背中に届く声があった。ミナモは振り返る。薄暗い部屋では、その向こうのデスクを見通すのは難しい。特に扉が開いた今では、背後の灯りが彼女の視界を邪魔していた。
 それでも、デスクについたままの義体が、出ていこうとする少女に気遣う声を掛けた。その事実は厳然たるものだった。
「…はい!」
 ミナモは別れ際に元気な声を出していた。相変わらず不器用で律儀な人だと、彼女は思った。
 その彼女の姿を、自動ドアが覆い隠してゆく。
 
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