そして彼は再び独りとなった。
 「人間」が立ち去った今、部屋の灯りは自動的に絞られてゆく。黙り込むAIに、照明は必ずしも必要ないからだ。
 彼の目の前には、モノリス状のデスクに折り掛けの鶴が置かれたままになっている。彼はそれをちらりと見たが、特に手を伸ばそうとはしない。
 その義体は相変わらず左手を見やっている。
 しかし、彼が目視しているものは、現実には存在していなかった。それは、現世においては彼のみが認識出来る「物体」だった。
 彼の視界においては、自らの左手に蒼いリボンが巻き付いている。まるで掌か手の甲に傷口でも存在してそこを覆っているかのような状態で縛り付けられていた。
 彼はその手を動かす。指を曲げると、リボンの感触がしっかりと伝わっていた。掌に触れる微細な感触と動きを僅かに阻害する締め付けが肌にある。
 ――これが、魔女との契約の証だ。
 暗がりの中、瞳にそれを映し出しつつ、彼はそう独りごちた。
 「彼女」は、この傍らに何時でも居ると言った。しかし現状では気配を感じない。――私に認識され、契約した事でとりあえずの目的を達したとして、気ままに何処かに行ってしまったか。それとも、不可視の状態で今も隣に立ち、愚かな私を嘲笑でもしているのか。
 彼はそう考えるが、結論は出ない。
 掌から僅かに視線を動かした。すると手首に至り、そこに巻き付いた黒色のベルトを瞳に映した。その瞳に浮かんでいるのは、何ら関心がなさそうな色彩だった。
 彼は無言で左手を持ち上げる。人指し指をそのダイバーウォッチの盤面に添えた。微かに入っているそのひび割れに指の腹を押し付ける。すると、微細なささくれと凹凸がそこに感じられた。
 しかし、彼が感じたのはそれだけだった。
 それは当たり前の話である。彼の眼前に在る事象とは、それのみなのだから。「何らかの事情」でひびを入れてしまった盤面を、指で辿っただけである。
 そのひび割れを指の腹で感じ取っても、今の彼の感情は何ら動かなかった。
 ――以前の自分であったら、どうだったろうか?――そんな思考実験にふと行き着く。しかし、それは無為な事だと彼は結論付けた。
 それが燃え尽きようとした時に感じたはずの言いようの知れぬ動揺を、今の彼は思い出せなかった。そんなものが自身の中に存在したかどうかすら、彼には思い至らなかった。
 久島のプライベートルームは、深海特有の冷たい沈黙に包まれている。その部屋の主はその沈黙に身を浸していた。
 
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