「――蒼井ミナモ」
 話を打ち切るように、久島の義体が彼女の名を口にする。言いながら彼は、自らの右手を彼女へと差し出した。その手には何かが摘み取られている。2本の指で摘み上げるように持っている。
「私は、これを君に返却しなければならなかった」
 そう言われたミナモは、彼のその手元を覗き込む。彼との背の差は頭ひとつ程度のため、彼の手がミナモの顔に丁度いい位置に来ている。だから彼女は、顔を近付けてそれをまじまじと見つめた。
 そして、怪訝そうな声が少女の口から漏れた。
「えっと…――これ、ゴムですよね?」
 久島の義体が摘み上げているものは、何の変哲もない黒いゴムの輪だった。接着されて結び目が存在しないタイプで、若干太めなゴムが綺麗な輪を作り出している。
 一体これは何だろう。見るからに髪留め用の黒いゴムなのだが、こんなものを何故この「AIさん」が持っているのか、ミナモには全く見当がつかない。
「これは元々君が持っていたものだ」
 言いつつ義体は無言でその指を揺らす。何かを促す素振りを見せた。ミナモはそれに反応し、慌てて両手を彼の手の前に差し出す。すると彼の指がゴムを離す。黒いゴムが重力に従い、彼女の両手の中に落ちた。
「…そうなんですか?」
 ゴムの軌跡を僅かな視線移動で追いつつ、ミナモは呟く。彼の台詞を受けた。彼にそう断言されてしまっても、彼女自身には全く判別が出来ない。
 何せこれは飾りが何もついていないような、何の変哲もない市販品らしき黒いゴムなのだ。ミナモには区別がつかない。
 確かに自分もこの手のゴムを使っている。それはミナモにも良く判っていた。
 ミナモのトレードマークとは頭を彩る大きなリボンだが、それ自体で髪を留めているのではない。あくまでも飾りに過ぎなかった。リボンの下にはゴムで髪を結んでおき、その上にリボンがついた髪留めを被せているのだ。それが彼女のスタンダードな髪型だった。
 百歩譲ってこのゴムが本当にミナモの所有物だったとして、ではそれを何故このAIが預かっていたのか。そこを更に大きな謎として、ミナモは捉えてしまう。
「厳密には私自身が受け取った訳ではない。成り行きでそのまま私が譲渡された状態に陥っていた」
 淡々とした義体の口調に、ミナモは首を捻る。彼女にはますます訳が判らない。
 そんな彼女を、義体はちらりと見た。引き戻した右手を身体の横に持ってくる。見ないまま腰を探り、そこのポケットに納める。自然な立ち姿を保った。そして表情を変えないまま、告げた。
「10月31日のあの現場で、君は波留真理を模した義体の髪を結ったはずだ」
「…あ」
 その指摘で、ミナモはやっと思い至った。口に右手の掌を当てて、大きく開けた口を覆う。左手にはそのゴムを握り締めた。
「その際のあの義体にはデフォルトAIが搭載されており、更にリモート義体として波留真理が遠隔操作していた。君としては、義体ではなく波留の髪を結ったつもりだったのだろう」
 淡々とした義体の語りをミナモは耳にしている。彼女としては、確かに彼の指摘は正しいと思わざるを得なかった。脳裏にはあの時の情景を思い返す。
「その後、私は久島永一朗の義体を失い、あの義体に換装されるに至った。そして私にはこのゴムの所有者が誰であるか、想いを馳せる余地もなかった」
 義体にはあっさりと説明されてしまったが、ミナモの脳裏に回想してみるとそれはとても壮絶な光景となっていた。そしてあの当時の彼の無気力振りも思い返す。
 良くもここまで立ち直ってくれたものだと思う――そう考えるのは彼女だからこそであり、常識的には「AIが立ち直る」と言う解釈はおかしなものだった。AIとは設定によって感情も思考も操作可能な存在なのだから。
「あの義体の所有名義は久島永一朗のままになっている。そして私は彼の財産を全て管理する役目も担っている。だから、このゴムを後日私が回収しておいた。これは久島永一朗のものではなく君の財産だからな。所有者に返却しなければならない」
「…財産って、何だか凄く大袈裟な気がするんですが」
 結論に行き着いたらしい義体の台詞に、ミナモはそれだけ返していた。それは、この一件に対する彼女の第一印象だった。髪留めゴムを返す――それだけの事なのに、やけに仰々しい表現を用いられたものだと思う。
 そんな彼女をちらりと見て、義体は右手をポケットから抜いた。そのまま両腕を身体の横に揃え、軽く頭を下げる。
「ともかく、今まで君に返却しそびれていた。申し訳ない事をした。謝罪する」
「…いえ、そんな大事なものでもありませんし、大体、私だってすっかり忘れてましたし」
 言葉の通りに態度でも謝罪の一礼を行ってきたその義体に、ミナモは恐縮してしまった。左手にゴムを握り締めたまま、両手を胸の前で振り続ける。全くもって大袈裟な事だと思う。
 大体、髪留め用のゴムなど、普通に使っていたにしても消耗品に近い。いずれ内部でゴムが切れたり、継ぎ目が外れたりするものだった。
 ミナモとしては飾りもついていないようなゴムに、過剰な所有権を主張するつもりはない。なのに、この義体はあくまでもそれに拘る――その態度に想いが至ると、ミナモは微笑んだ。感じた気持ちが素直に口から突いて出た。
「AIさんって、本当、律儀ですね」
「人間に従うAIとして、当然の事をしているまでだ」
 義体は彼女の感想をさらりと交わす。無表情のままで、淡々とした言葉だった。
 しかしミナモには悪い気はしない。それがこの「AIさんと言うひと」だと認識していたからだった。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]