ソウタは無言で右手を振る。顔の前に持ってきたその手をモノリスの盤面の上へと浮かせた。
「――ホロン」
 彼はそれだけ言った。直後、手の先にヘクスのウィンドウが出現する。そこにテキストデータが展開されて行った。
 画面に高速で表示されてゆく文字列には、英数字が不規則に並んでいる。中には難読漢字なども混ざっており、全く意味を成さない形式で延々と文が続いていた。明らかに文字化けしているファイルである。
 やがて、スクロールするその画面がぴたりと静止した。ちらちらとちらつくように、画面の1ヶ所が明滅していた。ある単語をハイライト表示している。
 ソウタはホロンに目配せする。その態度にホロンは無言のまま、ウィンドウを見やった。ハイライトで強調されたその単語を視界に入れる。
「――…人名ですか?」
「ああ」
 ホロンの問いに、ソウタは重く頷いた。手をモノリスにかざしたまま、ウィンドウを眼前に表示させたまま、彼は続ける。
「これは波留さんが復元していたレッドの記憶の一部だ。波留さんは自分のオフィスメタルにこれを残したままだったから、俺も今こうして閲覧出来ている」
 意味不明な文字列は、レッドの記憶がジャンク化していたからである。それを波留は復元して意味のあるデータとして読み取ろうとしていた。そうする事で、今回のテロの首謀者などの真相を解き明かそうとしていた。
 それが電理研から波留真理へと与えられた依頼だった。しかし今、彼はそれを放り出して何処かへと消えた。――このジャンクデータを改めて確認するまでは、ソウタはそう思い込んでいた。
 が、事情が少し違っていたと、彼は知る。それはハイライト強調表示されたその人名から読み取る事が可能だった。
「――この方は、気象分子協会に所属していたとの記録が残されています」
 果たしてホロンが導き出した結論は、それだった。そしてその結論には既にソウタも至っている。同じリストを閲覧したのだろうから、当然の話だった。
「ああ――」
 ソウタは再び重々しく頷いた。瞼を伏せ、顔を俯かせる。眉を寄せて唇を噛んだ。しばし沈黙する。
「…波留さんは――」
 彼はそこで言葉を切った。それ以降の台詞を続ける事が出来なかったからだ。
 それを言ってしまっては、全てが終わるような気がした。それ程までに彼にとって、その言葉は重かった。
 しかし言わなければ話は進まない。彼には部長代理としての立場があり、眼前の公的アンドロイドに今後の方針を伝えなくてはならない。ならば、明確な結論を彼女に与えなくてはならなかった。
 ソウタは苦渋の選択をした。心中を吐き出した。
「彼の行方を追って――この島を出て行ったのかもしれない」
 波留はレッドのジャンクを復元する最中、この人名を割り出したのだ。テロの手掛かりとなり得るその名前を。
 今回のテロの標的は、久島永一朗の脳核とそこに保持されている記憶と知識である。テロリストのリーダーだったレッド当人がそう宣言したのだから、間違いはない。彼らは電理研統括部長にしてメタルの開発と運営責任者の頭脳を文字通り狙ったのだ。
 しかし波留には、彼らの狙った宝の価値など、知った事ではなかったはずだった。
 あの日、ソウタはレッドからの電通で病棟占拠の事実を知った。彼はその電通を隣の波留に横流ししていたが、その際の波留の表情を彼は忘れる事が出来ない。――久島永一朗とは、波留の長年の親友である。その事実の重さが波留の肉体から目視可能なまでに滲み出て来ていたのだ。
 波留ならば、テロの首謀者を決して許さないだろう。
 そんな彼が、仮に真っ先にその手掛かりを入手したら?果たして電理研に情報を引き渡すような迂遠な真似をするだろうか――?
「そうかもしれませんね」
 対するホロンの態度はさらりとしたものだった。まるで当然のようにソウタの言葉を受け容れている。
 彼女の言動にソウタは拍子抜けした。唖然とした顔になる。彼は相応の覚悟をもって発した言葉だと言うのに、それを受けた秘書型アンドロイドは通常の重みで捉えたらしい。
 虚を突かれた感のあるソウタに、ホロンは微笑んだ。安らかな印象を与える笑顔で、言う。
「マスターは戻って来られますよ」
 アンドロイドが発したその台詞は、何処か達観したような雰囲気を醸し出している。ソウタの懸念を解きほぐす言葉を発していたからだ。
「…そうだろうか?」
 ソウタは呟いた。俯き、モノリスの上で両手を組む。黒い盤面に自らの顔が映るのを目の当たりにする。その表情は、我ながら暗い。
「ソウタさんには、マスターについて御懸念をお持ちですか?」
「いや…」
 穏やかなホロンの問い掛けに、盤面の表情が曇る。
 ――その懸念はむしろ、自分にある。
 果たして自分もこの情報を真っ先に知ったなら、自制が利いただろうか?――彼はそれを自覚していた。

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