「――ミナモさん。申し訳ありませんが、こちらに来て頂けますか?」 ミナモの聴覚にさざめいていたその波の音を打ち破ったのは、ホロンの声だった。アンドロイドの声色は普段と変化せず落ち着いていて、潮騒を掻き消し沈黙させる。 その声が聞こえてきたのは、現在ミナモが居る寝室からリビングを挟み位置するキッチンからだった。名を呼ばれた少女は、慌てて手にした書籍をテーブルの上に置く。そして、そちらへと向かう。決して広い家ではないために、ホロンの元へはすぐに到着した。急ぎ、ミナモは問い掛ける。 「ホロンさん、どうしたの?」 「これを御覧下さい」 待ち受けていたホロンに手で指し示され、ミナモはキッチン備え付けのカウンターの上を見た。 そこにはパスタなどの乾物類と各種缶詰が並んでいる。それらの量は多くはない。外観やレーベルを眺めるに、一見して特別な食材は存在しないようだった。ミナモ自身、スーパーなどで買い求めた経験を持つ馴染みのブランドのものも含まれている。 それらを認め、ミナモは首を傾げる。これらを私に見せて、一体ホロンさんは何を言いたいのだろう――。 「これが、どうかしたの?」 「この家に残されていた食材はこれだけでした」 「え?」 ホロンの答えに、ミナモはきょとんとした。続けて問う。 「冷蔵庫の中は見たの?」 「はい。冷蔵庫・冷凍庫共に、その内部には食材が全く貯蔵されておりませんでした」 「えー?」 問われたホロンは現状の補足を述べる。その言葉に、ミナモは再び不思議そうな声を上げた。 早い話が今のこの家では、冷蔵庫が空っぽなのだ――即座にミナモの脳裏にその情景が浮かぶ。そしてそれは、彼女の日常においてはあり得ない話だった。 そんな事にならないためにも、常々食材を買い揃えておく。それが家事を預るようになった人間の仕事であり、今の蒼井家ではそれはミナモの任務だった。しかし、この冷蔵庫ではその任務を果たせていない事になる。 ――波留さんは、買い置きをしない人なのだろうか。ミナモは、まずそう考えた。 買い出しの際には事前に準備したメモの通りに動き、余計なものには眼もくれず、食材はその日は近日中に使い切る分だけを購入する――そんな風に買い物をしっかりと管理するタイプの人間は存在する。 様々な陳列物に目移りしがちな自力での買い物ではなく、メタル経由での通販を利用すれば、その管理は更に行き届く。現在の人工島では通販利用でも、必要最小限のものをすぐに届けて貰う事も可能だった。 しかし、そう断じてしまうには、この乾物や缶詰は何だろうと思う。日持ちするものではあるが、どう考えても「買い置き」に分類されるような食材だった。 ならば、冷蔵庫を全く利用せず、外食のみで済ませる人間――と言う可能性は、しかしミナモは速攻で否定してしまう。そもそもそんな人間がどうして乾物類を買うだろう。 缶詰類ならともかく、パスタの類は普通ソースと合わせて食するものである。パスタもレトルトのソースもそれぞれ湯がいて温めて合わせるだけの簡単な食事ではあるが、そんな一手間すら面倒臭がる人間だからこそ、外食に走るのではないだろうか? そもそもその手の人間なら、まず温めれば即食卓に並べられるような冷凍食品を溜め込むのではないだろうか?それならば外出する手間も省けるのだから。 「――ミナモさんは、どう思われますか?」 「うーん…」 ホロンに尋ねられ、ミナモは首を捻る。そう質問されても、彼女の中でも結論は纏まっていない。 人工物たるホロンはこの現状に整合性を見出せなかったために、人間たるミナモを呼んで訊いたのだろう。しかし当のミナモにもこの眼前の食材の羅列の意味する所を、まるで理解出来ていなかった。 「冷蔵庫の中身がないって事は、片付けて行ったのかなあ…」 少女は食材を見下ろしたまま、呟くように言う。語りつつ、ミナモは思考を自分の中で纏めて行こうとした。何らかの可能性を見落としているはずだと考え、それを見出そうとする。 「ですが、マスターは缶詰類は残しておられてます」 「そうなんだよねえ…」 全くもって、ミナモもそこが良く判らないのだ。ホロンもそこを上手く解釈出来ていないからこそ、ミナモに改まって訊くのだろう。 波留は普段は料理をする人間だろう。なのに現在の冷蔵庫に全く食材が残っていないのならば、それは処分したと考えるのが適当である。 波留が自分の意思で冷蔵庫の食材を片付けてしまったのだ。合わせて、飼い猫の痕跡がまるで残っていない事実もある。 ――彼は何処か遠くに旅立ったのだ。それも、計画的に。 波留が食材を処分したと考えるならば、その事実を認めなければならない。ミナモの胸には、それがちくりと棘のように突き刺さる。 とは言え、旅立つに当たって能動的に食材を処分して行ったとすれば、何故乾物や缶詰類だけが残っているのか。何故それらを処分の対象から外しているのか。あの波留が処分を忘れていくとは思い難い――。 「――…あ」 その時、ミナモは短く口を開いた。何かに気付いたような表情になる。そして、口許が緩んだ。少女の顔が徐々に明るくなってゆく。 「ミナモさん?」 その変化を傍らのホロンも認めたらしい。怪訝そうな声で、少女の名を呼んだ。 すると、少女の褐色の髪が大きく揺れた。ミナモは勢い込んでホロンに向き直る。胸元に両手を握り締め、身長差10センチ以上のホロンを見上げた。 「――もしかして波留さん…戻ってくるつもりはあるのかもしれないよ」 ミナモは勢いのままにそう告げていた。喜びを抑え切れないらしく、表情は明るいままだった。 そのミナモの台詞に、ホロンは首を傾げる。唐突な物言いだとAIが解釈したのだろう。眼前のミナモも、ホロンの様子を理解した。自分の言いたい事が伝わっていないと知り、身振り手振りを加えつつ心中を吐き出してゆく。 「だって、乾物とか缶詰とか、確かに賞味期限長いけど、持って数年じゃない。それをこんなに残してるって事は、波留さん的にはこのまま人工島から居なくなるつもりじゃないんだよ」 「――…つまり、マスターには、この御自宅にお戻りになる意志はおありだと…ミナモさんはお考えなのですか?」 「うん」 台詞が途切れた後、ホロンが少女の弁を整理し簡潔に述べてくれた。そして当のミナモは大きく頷いた。我が意はそこにありと言わんばかりの態度である。 「流石に生物とかを置きっ放しにするのは無茶だから、冷蔵庫の中身は片付けてるんじゃないかな。冷凍食品だって放っとくと焼けちゃうし」 更にミナモは付け加えた。それは7月下旬からのこの3ヶ月間に渡り、彼女が家事全般を担当し蓄えた知識を用いての結論である。 何ヶ月も家を空けるならば、文明の利器たる冷蔵庫とて万能ではない。時間を置けば確実に中身が駄目になってゆくだろう。冷凍庫もまたその範疇から逃れられず、冷凍焼けと言う形で食材を痛めてしまうものだった。 時を経ても無事なのは、元々そう言った処置を加えている加工食品である。それらにも未来永劫の猶予は与えられている訳ではない。安全面において保存自体は利いたにせよ、味の劣化は避けられないからだ。だから食品企業は大抵の食材には、長くても2,3年程度の賞味期限しか設定しない。それ以降の保存は、消費者の自己責任だった。 「――…成程」 熟慮していたホロンの口から、その言葉が漏れた。ミナモからもたらされた意見を、彼女なりに解釈していたのだろう。ミナモの経験則に、AIの客観性が補強されてゆく。 「マスターは私に"暫く人工島を離れる"と仰いました。つまり…――」 「――"暫く"だから、いずれ戻ってくる!」 「そう考えるのが自然かもしれませんね」 ふたりは、その結論に行き着いた。 その時、ホロンはミナモに微笑み掛けていた。眼鏡の奥の瞳は細められ、笑みを湛えている。ミナモもまた心からの喜びに、表情が明るくなっていた。 キッチンからリビングを隔てた寝室には、相変わらず月明かりがガラス壁越しに降り注いでいる。その光を浴びるテーブルの上には、無造作に放られたままの蒼い海を表紙とした書籍があった。その画像は、まるで現実の海のように、月明かりに煌いていた。 |