殺風景な部屋だ。
 「波留の自宅」と目されたこの一軒家に足を踏み入れたミナモが抱いた第一印象とは、それだった。
 室内がきちんと片付いている事も、その印象を際立たせている。狭い家だが独り暮らしには広い代物であり、結果的に家具の類の数が少ない事もそのイメージに荷担していると思われた。
 玄関を抜けてリビングに立ち入ったミナモは、ざっと視線を巡らせる。あまりじろじろ見るのはやはり礼儀にもとると思ったからだ。あくまでもこの家を調査するのはホロンであり、自分は同席したに過ぎないのだから。
 この家には、生活するに当たって本当に必要最小限の物しか置いていないような気が、ミナモにはする。趣味を感じさせるような物品が目に付かないのだ。
 彼女が知る「他者の部屋」とは、まず兄のものが思い浮かぶ。今の彼は自宅に戻ってくる日が少なくなり、妹がたまに掃除しに足を踏み入れる事もあった。
 すると「格闘マニア」らしいアイテムの数々が少女の眼を惹く。どうやらファンをやっているらしい格闘家のポスターが貼られていたり、棚には格闘家のフィギュアが置かれていたりする。果てにはサイン入りポスターなども壁にあり、それを眺める度にその趣味に興味を持たない妹は半ば呆れるものだった。
 その兄の部屋を思うと、「海が大好きな波留さん」ならばきっと海に関連したものがたくさん置いてあるに違いない――ミナモはそう推測していた。しかし、実際には全く違う。海のポスターとかイルカの置物とか、「格闘マニア」を「海」へとそのまま置き換えて想像つくようなアイテムが、まるで存在しなかった。
 ――大人のひとの部屋って、こういうものなのかな。趣味とか全然感じさせないようなものなのかな――ミナモは目の前の光景に、そんな感慨を抱いた。そしてそれを思うと、自分が如何に子供なのかを思い知らされた気すらした。この部屋の主と自らとの間に、隔てる壁のような物を感じる。
 それだけではない。ざっと眺めただけでも、ミナモはこの部屋に何かが足りないと直感していた。
 そして彼女はそれにすぐに気付いた。室内に微かに残る獣臭さが、その印象を助けたのだ。
 波留は猫を飼っていたはずだった。
 正確には、波留が老人であった頃に開設していた事務所にて、ミナモはその猫と戯れていた。その後の猫の処遇は、良くは知らない。が、確かドリームブラザーズから波留が出て行った際、あの家主の兄弟は「波留さんはあの猫を引き取って行った」と言っていた記憶がある。
 ならば、今も波留の元にあの仰々しい名前の猫は居るはずだった。
 なのに今、ここには居ない。
 あの懐かしい灰色ぶち猫自身も、「彼」を飼うためのゲージや餌類も全く室内に見当たらない。ここに越して以来の2ヶ月間、既にその猫を飼っていなかった――と結論付けるには、この獣臭さは何だろうと少女は訝しく思う。
「――シュレディンガーが居ませんね」
 ミナモが今怪訝に思っていた内容を言い当てたかのように、ホロンの声が少女の耳に届く。その公的アンドロイドは隣の部屋に立ち、ミナモの方を見ていた。そちらは間取りからしてキッチンのようである。
 ミナモは彼女の方を向く。慌てた声が口から漏れた。しかし、少女は思いの丈を全て発する事は出来ない。
「まさか、波留さん」
「仮にシュレディンガーを処分なされたのならば、その記録が残っているはずです。そうでなければ何処かに預けておられるか、或いは旅に同行なさっているか…何にせよ、マスターの行方を知る上で、手がかりになるかと思われます」
 淡々とした口調のままにホロンは物騒な可能性を提示してくるが、1番目の可能性も否定は出来ない。飼い切れなくなったペットを最期まで管理するのは飼い主の務めだからである。このアンドロイドもそれを理解しているが故に、命ある生物ではなく単なる動産としてのあの猫の扱いを示唆したのだろう。
 しかしミナモとしては、選んだとすれば後のふたつの処遇であると祈りたかった。それに波留が1番目の手段を用いるとは思えなかった――自己のために他者を犠牲にするなど。
 しかし――彼がやはり「人間と動物は違う」と認識しているとすれば?それこそアンドロイド相手のように――ミナモは先日、あの久島の義体に対して怒りを露わにした波留の姿を思い出す。すると、どうしてもその危惧を抱いてしまう。
 ふと顔を上げた。すると、奥の部屋に位置する、外に吹き抜けるような一面のガラス壁が目に入る。そこからは外が良く見えた。そしてここにおける外とは、紛れもなく碧い海だった。夜も更けた現在では、月明かりがその紺碧を淡く照らし出している。
 家具が少ない事も相まって、室内だと言うのに海が良く見える。その光景に、ミナモは思わず見惚れてしまっていた。不意に、脳裏にその単純な感想が去来する。
 ――波留さんらしい。
 彼はこの風景をずっと見ていたのだろうか。在宅出来る時間はそれ程なかったにせよ。
 そんな感想のままに、ミナモは思わず、吹き抜けたその奥の部屋へと歩みを進める。今まで気後れしていたが、波留が休んでいたとおぼしきパーソナルスペースへと自然に足を踏み入れていた。
 こちらは寝室として利用されるようで、壁際に設置されているシングルベッドは綺麗にしつらえられている。傍らのクローゼットの扉もきちんと閉められていた。後は窓際にテーブルがあり、その盤面には月明かりが差し込んで来ていた。星明かりと海が弾く光がぼんやりと室内を照らしてくる。
 ふと、ミナモはそのテーブルに目を向けた。光と陰が射すその場所を見やる。
 テーブルの上に、物が置かれたままになっていた。
 ――片付けてないって、珍しい。ミナモはそう思った。何せ他の場所においては、物を置きっ放しにすると言う概念すら知らないような状態だったのだ。それが、ここに限って…――そう思いつつ、ミナモは手を伸ばす。置かれていた物を手に取り、自らの顔の前に持ってくる。
 ミナモはそれを眺めた。書籍形式のそれは、妙に蒼に染まって見える。そんなに外の海の紺碧が照り付けてきているのだろうか――彼女は一瞬そう思ったが、良く見るとその蒼はその書籍自体に印刷されていた。
 その分厚い書籍は美しい海を表紙にしていた。ミナモは更に引っくり返して裏面を眺めた後に、何気なくページをぱらぱらと捲ってゆくと、その中身にも海の画像がふんだんに掲載されているのを目にした。
 その中には、海の上で流線型の生物が飛び上がっている画像もあった。ミナモは思わずそのページに眼が留まる。
 それはイルカと呼ばれる海洋生物だと、ミナモは知識として知っていた。しかし写真画像や水映館での動画で見ただけであり、実際に自ら目撃した経験はない。何せミナモが15歳の人生において海を身近に感じたのは、人工島に越してきたこの4月からである。それ以前にはオーストラリア内陸部に居住していたために、海に触れる経験が少な過ぎたのだ。
 ミナモはイルカと海の蒼に意識を奪われていたが、その画像類にはそれぞれにキャプションが添えられていた。それは日本語表記であり、ミナモには充分に理解が出来た。
 改めて表紙を見やると、海の画像に被せて記載された文字列が目に入る。それも本文同様、日本語で文字が表記されていた。良くある電脳化者が読み取れるバーコード仕様のものではなく、メタルに接続せずとも日本語さえ解していれば理解できる前時代的な表記だった。
 ミナモはそこに「唐津」の文字を見出していた。
 彼女は思わず、その本を手にしたまま、立ち尽くしていた。
 その時、窓の向こうの海から、潮騒の音を聴いた気がした。距離があるために本来なら聴こえる訳もないそれを、ミナモの脳は知覚していた。

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