水路に停車し自動ドアを開いたタクシーから降り立ったミナモは、その姿勢のままに桟橋に立ち尽くしている。 ここは人工島では有り触れた水路であり、水上交通用の乗降口だった。水路が張り巡らされた人工島においては、陸上交通はメジャーな手段ではない。島民は水路を利用する水上バスやタクシーで島内を行き来するものだった。 ミナモにとって、この場には目新しい物が存在しない。唯一変わって感じられるのは、現在のこの夜の風景である。 思えば今日の早朝、始発バスに乗って電理研に出向いたのが、彼女にとっては遠い昔のようだ。そして兄に会った後にあのAIがその足で立つのを目の当たりにして喜んだと思えば、波留からの返信が一切なく落ち込んだりもした。挙句、波留が失踪したと来ている。1日に発生するイベントにしては、盛り沢山に過ぎた。 道端の暗がりを、点在する街灯が照らし出している。港湾や空港に近い旧来のメインストリートであるこの一帯には、味わいのある街灯が立っている。舗装された路面がその淡い光を弾き、たまに行き交う人々の足元を照らしていた。 「――ミナモさん。どうかなさいましたか?」 桟橋から数歩先に歩みを進めていた電理研所属アンドロイドがその後に続いてこない少女の存在を知り、足を止める。振り向き問いかける彼女の眼鏡のフレームに光が当たった。 「ホロンさん…本当に、この辺に波留さんの自宅があるの?」 ミナモは戸惑った表情を浮かべ、質問した。彼女は呆然と周囲を眺めている。 「マスターが故意に御自宅から乗降場所を遠ざけていないのならば、この付近に御自宅が存在する確率は90%を越えると思われます」 微笑み答えるホロンに、我に帰ったミナモが駆け寄る。流石に暗くなった時間帯に、この白い人工島中学校の制服は目立っていた。しかしそれ以上に、公的アンドロイドのホロンの姿は通行人の眼を惹く事だろう。 「現在、付近の賃貸物件の情報を検索中です。マスターが身分を詐称して借り受けてらっしゃらなければ、契約された御自宅が見付かるはずです」 現在、ホロンは中空を見つめながら歩いている。更にはミナモと会話もしているのだから、器用な事をするとミナモは思ってしまう。が、メタルを駆使する人々ならばこの程度は出来て当然なのだろうとも思う。彼女の周囲の人々は、ほぼ例外なくそうだったからだ。 マルチタスクを実行しているアンドロイドを見習うように、ミナモも歩きながら辺りを見回す。海風は微かに潮の香りを運んでくる。そして何処かから甘いような香ばしいような、料理の匂いも漂って来るような感もした。 その方向を見やる。すると、通りから外れた場所に垣根が存在し、テラス状の木目の床が広がっている。そこにはテーブルが何脚か並んでいた。そこに、敷地内に設置された柔らかい照明が降り注ぐ。それぞれのテーブルには何人かの人々が腰を落ち着け、そのテーブルの上に置かれた料理を食していた。 ミナモはその脇を通り過ぎてゆく。テーブルの人々も自分達の食事に集中していたが、一部、ふと視線を上げてみたらしいテーブルの人間も居た。そこに場違いな人工島中学校のセーラー少女や電理研所属を表す制服を纏った公的アンドロイドを認め、食事の手を止めて半ば唖然としてみせる。 が、それ以上は関心を抱かなかったらしい。同席者に軽く話を振ったようだが、じろじろとミナモの方を見るような不作法はなかった。 逆にミナモが付近に視線を巡らせる。テーブルの配置の向こうに存在する建物に目をやる。その中は骨董品が乱雑に置かれている。それは陳列と言うレベルではない。そしてその屋内にもテーブル席は存在し、それらも全て埋まっていた。どうやら夜も人気店らしい――昼の情景を知るミナモには、意外な話ではなかった。 「――ミナモさん。マスターの御自宅が判明しました」 その声に、少女は我に返る。視線を固定し、ホロンを見た。 「やはりこの付近です。参りましょう」 ホロンはそう言いつつ、微笑み右手を挙げている。その手である方向を指し示していた。通りの先に揃えられた指先が向けられている。どうやら波留は恒常的に自らの居所を隠そうとはしていなかったらしい。 「…本当に、この辺だったんだ…」 応じるミナモの声は小さい。何処か呆然とした響きがあった。先を行くホロンの後を歩きつつも、続けて言う。 「私、この辺良く来るんだよ。勿論学校帰りとか休みの日で、こんな夜には来た事なかったけど」 「そうなのですか」 ホロンの応答が少女に届く。それを受け流しつつ、ミナモは視線を再びあの飲食店へと向ける。古ぼけ、植物に覆われたその建物を、遠巻きに見やった。 店舗からテラス席へと、トレイにデザートを乗せて店長――通称マスターが姿を見せた所だった。その髭面と言い帽子で覆われた頭に体格のいい図体に似合わないエプロンと言い、ミナモにとってはあまりにも見慣れた人物がそこに居る。 ミナモにとって、ここは見慣れた通りだった。何故ならここは、彼女が放課後や休日に友人達と通い詰めているアンティーク・ガルの所在地なのだから。 「もしかしたら私、この辺で波留さんと出会えててもおかしくなかったのかなあ…」 「マスターはこちらに越されて2ヶ月で、それも外出している時間帯が主だったようです。業務の関係上電理研に寝泊まりされたりしていた期間もありますし、ミナモさんは平日は学校に通われてます。従って、おふたりがこの付近で出会う確率はそれ程高くないのではないかと考えます」 ミナモの独り言めいた呟きをホロンは問題提起と捉え、淡々と分析を述べていた。それをミナモは聞き流している。彼女にとって、そんな確率論は問題ではなかった。 今まで誰も見知らぬ状態だった波留の自宅である。そこを目指すからには、全くの新天地に辿り着くものと思っていた。なのに、いざ調べてみたら、ミナモにとってはこんなにも見慣れた場所だったのだ。 もっともここは海岸通りであり、人工島の短い歴史を紐解けば最古のメインストリートである。現在では人工島の中心地は地下区画や海底区画に移っており、ここには昔の喧噪はない。しかし、現在でもそれ程寂れているとも言えない場所だった。 そして海に近い場所を選ぶのは、あの人の性格を思えば当然かもしれない――ミナモは目の前の見慣れたこの光景に、そんな事を思った。 |