「――それじゃホロンさん。行こう!」 兄と話がついた今、ミナモは何処か自らを鼓舞するような声を出していた。ちょこちょこと歩みを進み、応接スペースのソファーの上に置きっ放しにしていた肩提げ鞄の紐を手に取る。 そんな彼女をホロンは視線で追っていた。眼鏡の奥の瞳は微笑んでいる。しかしこのアンドロイドはソウタの前から動かない。何らかの作業のためにメタルに接続しているようだった。 唐突に、ホロンが表情を変えた。口許から微笑みが消え、瞼をふっと開く。そしてソウタに困惑したような視線を送った。 そんな彼女に、ソウタは怪訝そうな表情を浮かべた。何か不具合でもあるのか、とりあえず短く問い掛ける。 「――…どうした?」 「ソウタさんは、マスターの現在の住所を御存知ありませんか?」 「え?」 ソウタは短い声を上げた。怪訝そうな表情がますます深まってゆく。 このアンドロイドは、何故そんな事を訊いてくるのだろう。仮にも自らのマスターのプロファイルである。アンドロイドに「マスター登録」する以上、彼はホロンに自らの情報を与えておかなくては意味がないはず――。 そこまで考えを進めた時点で、ソウタは気付いていた。波留は既にホロンを解放したも同然の身の上だった。そして彼がホロンを使役していた当時から今とでは、状況がかなり変化している。登録しておくべき内容も、相当違ってきているはずだった。 しかし、最早波留はホロンを使役していない。現在のホロンは電理研に返還されたような状態で、ソウタの秘書の任務を担っている。そんな彼がわざわざホロンへの登録情報を最新のものへとアップデートしておく必然性は、かなり薄いだろう――。 果たしてホロンは眉を寄せ、困り果てたような顔をしている。胸に手を当て、ソウタにその事実を告白した。 「マスターは、私に現住所を教えて下さっていませんでした」 ホロンからの告白は、ソウタが想像した通りの事態を示していた。厭な予想が当たった格好になり、ソウタは思わず頭に右手をやった。憮然として前髪を掻き上げる。それでも彼は、ひとつの可能性を思いつく。それをホロンに尋ねてみた。 「波留さんは電理研の委託メタルダイバーだろ?彼らには電理研にプロファイルを登録する規定があるはずだが」 「そうなのですが…該当リストを只今検索した所、マスターのリアルの住所登録情報は、ドリームブラザーズとなっていました」 どうやらホロンもその規定は理解しており、先回りして検索済みだったらしい。そして彼女が導き出した結論から自ら提示した可能性が適わなかったと理解し、ソウタは思わず苦虫を噛み潰したような顔になっていた。 それは、波留が再電脳化した直後に登録したプロファイルだった。しかしその時点で彼はドリームブラザーズでの居候の身の上ではなくなっており、言わば虚偽の記載をした事になる。 波留がそれに至ったのには事情がある。波留は電脳化の処置の直後、すぐにソウタから依頼を受けていたのだ。 彼はドリームブラザーズから退去したその足で電理研付属メディカルセンターに向かい、再びの電脳化を施術を受けた。つまり、依頼を受けたのはまだ引っ越し先を決めていない時点である。 だから、依頼を受けるにあたって電理研委託メタルダイバーとして便宜的に登録し直す必要に迫られ、約1ヶ月間世話になったダイビングショップの住所を借りた格好になっていた。そしてそれを更新していないまま、今に至っていたのだ。 結果的に偽装情報と化していたこのプロファイルだが、今まではそれを誰も咎めず更新の催促もしていなかった。人工島では基本的にリアルの住所はあまり重視されないためである。 メタルに常時無線接続出来る環境だから何時でもメールなり電通なりで連絡を取れる。そしてアバター会合も一般的な社会である。直に顔を突き合わせなくても何ら問題はない社会なのだ。しかしこの一件においては、その利便性を当然と認識していたこの社会構造が裏目に出た格好となっている。 憮然とした表情で沈黙しているソウタを遠目に妹は見やっている。彼女はふたりの会話を訊いていただけだったが、話の流れは充分に把握出来ていた。 ――つまり、今の波留さんが住んでる場所を、誰も知らなかったって事? そんなものだろうか…ちょっと寂しくない?――とミナモは思う。そこで、自分の生活に当て嵌めてみれば、果たしてどうだろうと考えた。 すると、彼女が懇意にしているサヤカやユキノの自宅を、彼女は知らないと気付く。3人が集まるのは、いつも学校だったりアンティーク・ガルと呼ばれる店だった。ミナモにとってはそれで充分だったから、特にふたりの自宅を知ろうとは思わなかった。招かれた事もないのだから、ふたりも同様の考えなのだろう。 ――…やっぱり、そんなものなのかなあ…――ミナモは何だか釈然としないが、そんな結論に至る。その思考が顔に現れる。口を尖らせ、首を捻っていた。 そんな少女に、落ち着いたアンドロイドの声が届いてくる。 「ミナモさんは、マスターの御自宅を御存知ありませんか?」 それはミナモにとって不意の問い掛けだった。両眼を瞬かせ、思わずホロンを凝視する。髪を結い上げた公的アンドロイドは優しげな微笑みを浮かべ、少女を見ていた。 ミナモには、そのホロンの視線からは、まるで知っていて当然だと言われているような気がした。それに小さく息を飲むと、声が漏れた。 「――え…?」 僅かに視線を横にずらしてみると、黒色のモノリスが眼に入る。そしてその方向から視線を感じた。見上げると、そこに腰掛けているソウタも彼女を見ていた。その兄の表情は僅かな困惑を醸し出しているのだが、その視線は真剣そのものである。 ミナモは戸惑う。兄からも「知っていて当然だろ?」と言外に言われているような気がしたからだ。 しかし、実際には違う。ミナモはそれを思い、顔を俯かせた。ふたりの視線から逃れるように顔を背けていた。 「…ホロンさんも知らないんだもん。私が知ってる訳ないよ」 やがて、小さな声が漏れていた。ミナモはそんな事を言った。ふたりから向けられたとおぼしき期待を、彼女は明確に否定した。 ――ホロンとソウタからは、実際に台詞として言われた訳ではない。「波留さんの住所をお前なら知っているに違いない」とふたりから思われた――などとは、思い上がりも甚だしいのかもしれない。ミナモはそう思っている。 しかし、そんな勘違いをしてしまうのは、私には何処か後ろめたさがあるのだろう。 ――私、波留さんの事、何も知らないんだ。 いつも何処かで会えればいいと思っていたけど、何も知ろうとはしていなかったんだ。 会えるうちに、もっともっと話しておけば良かったのかもしれない。あんなにも声を聴きたかったと言うのに、それが失われる日が来るなんて、思ってもみなかったんだ――。 ミナモの顔は俯いたままで、上がってくる事はない。頭を彩るピンクのリボンも半ば伏せてしまっていて、彼女の心情を表しているかのようだった。 デスクに着いているソウタは、そんな妹をちらりと見た。口許が歪んでゆく。苦い想いが脳裏を去来するが、それを振り払うように溜息をついた。喉を呼気が通過するのを感じた後に、モノリスを軽く指で弾いた。そして、決意したような声を出す。 「――大丈夫だ。波留さんは今までに何度も電理研からタクシーを利用している。その乗車履歴を調べ上げれば、彼の降車地点から自宅の割り出しも可能だろう」 ソウタが導き出したその方策は、調査員としての経験の賜物だった。行動範囲を調べ上げれば、その人物の生活拠点はある程度絞り込めるものである。しかしピンポイントとはいかないだろう。 ともかく、現実的にはそこから割り出しを始めるしかない。ホロンは了承し、該当ログを取得し精査を開始していた。 |