秘書用アンドロイドからその答えがもたらされた瞬間、部長オフィスが有する空気は確実に凝固した。少なくともその場に居合わせた人間ふたりは、そんな認識を受けていた。
「――え、ちょっと、ホロンさん!?」
 ホロンの隣に立つミナモが頓狂な声を上げていた。その表情には混乱の感情が浮かんでいる。
 何で――そんな重要な事、ソウタに言ってないの!?彼女の脳裏にはそんな疑問が沸き上がる。
 もしかしたら、ホロンの中では大した問題ではないとして処理されていたのかもしれない。アンドロイドの元にもたらされた情報にはそれぞれに重要度のフラグが立てられて整理される。その重要度に従い、人間へと情報を引き渡す事になる。情報の選別もAIの重要な任務だからである。人間が些細な問題すらも渡されては、却って煩雑になるからだ。
 それにしても――と、ミナモは先程のエレベーター内でのソウタとのやり取りを思い出す。あのソウタは自らの苛立ちを隠せてはいなかった。いい格好を見せようとしている妹の前でもそうだったのだ。秘書たるホロンの前では更に覆い隠せていなかったのではないか?
 そして、そんな人間の様子を見抜けないホロンではないはずだった。人間が表層に見せる僅かな変化から心境の変化を読み取るのが、優れた対人プログラムである。そしてホロンにインストールされているプログラムは、現行最高レベルのものである。ソウタの真意が汲み取れなくとも、少なくとも怪訝に思い問い掛けるべき設定が存在するはずだった。
 ミナモはさっと後ろを振り向いた。そこに存在しているモノリスの先を見通す。そのデスクで、ソウタは俯き沈黙していた。その表情は硬い。両手はモノリスの上に置かれ、硬く握り締められている。何かを堪えているような印象をミナモに与えていた。
「――…君は何故、それを今まで俺に言わなかった?」
 やがて部長代理は静かに言葉を発していた。彼の秘書たるアンドロイドに問い掛ける。
 ホロンはデスクに向き直った。綺麗に姿勢を正し、そしてゆっくりと頭を下げる。両手を膝の前に合わせ、畏まった謝罪の一礼を加えてきていた。垣間見える表情からも詫びの印象が見て取れる。
「メールと共にマスターにそう指示されておりましたので…申し訳ありません」
 何処か沈痛そうな声でホロンは答えた。しかしそれらは対人プログラムとしての枠を外れていない。
 それにソウタは僅かに口を開けた。何かを言い掛けたが、声は出ない。そのまま口から溜息めいた呼気を発していた。両手の拳に視線を落とし、ゆっくりと解く。開く指を見やり、彼は唇を歪めた。
「つまり――他の人間から具体的に訊かれたら答えていいが、そうでない限りは自分から言うな――そんな感じか?」
「はい」
 ソウタが口にした推論に、ホロンは短く首肯した。そしてソウタは再び溜息をついていた。彼としてはそうせざるを得ない。彼が推測した命令を本当に波留がホロンに対して下しているのならば、それはかなり巧妙な命令だったからである。
 アンドロイドのAIには、人間に対しての絶対服従の原則が存在する。しかし人間と言えどもその立場は千差万別である。その人間同士が敵対していた場合、アンドロイドが人間全ての命令に従っていては社会が保てなくなるだろう。
 そのために、アンドロイド達には絶対的に服従すべき人間をひとりだけ設定するようになっている。それが「マスター」設定であり、ホロンにとっては波留真理こそがマスターそのひとだった。
 現在のホロンは、電理研部長代理たるソウタの秘書として仕えている。しかしそれは波留が「そうしなさい」と命令した結果に過ぎない。厳密には、ホロンにとってソウタはマスターでも何でもなかった。それでも「マスターから仕えるよう指示された人間」である。その他の人間とは重要度のフラグが明らかに違っていた。
 このホロンにとって「部長代理の秘書」としての役割は、波留をマスターとして仰ぐに次ぐ重要度となっている。
 仮にふたりの命令が真っ向から対立した場合はやはり波留の側が優先される。だからと言ってそんな命令をぶつけるのはAIの思考にとって好ましいものではないし、AIの解釈によっては予想外の方向に行動する恐れもある。だから不用意な命令は避けるべきだった。特に禁止事項においては、明確な条件を設定しておくべきである。
 今回波留がホロンに下したとおぼしき命令は、その原則を遵守していた。「波留から連絡を受けているか」と明確に質問されない限り、その連絡の事実を誰にも告白するな――もしそんな命令だったならば、明快そのものである。AIは惑う事無くその命令を実行するだろう。逆に、絶対に隠し通すようにと命令していたならば、今度は「部長代理の秘書」としての任務とは相反しかねないだろう。
 ――流石に波留さんは、ホロンの設定を熟知している。
 ソウタはそう思う。今は殆ど手放したも同然の状況とは言え、数ヶ月は介助用アンドロイドとして使役していたのである。普通の人間よりはアンドロイドに対する理解があって当然だったし、波留はメタルダイバーである。AIのプログラミングへの素養もあって然るべきだった。
 そうやって感嘆の念を抱く一方、ソウタには何処か釈然としない想いも沸き上がって来る。
 波留はここまで明快に不具合を回避する条件を与え、若干難しい命令をホロンに与えたのだ。波留はアンドロイドの運用方法を知り尽くしていると言える。つまり逆に言えば、波留はホロンを全く「人」だとは見なしてない事にならないだろうか――?
 あの流星群の夜の、調査船でのやり取りをソウタは思い起こす。あの夜の波留も、何処かアンドロイド達を突き放したような印象で見ていたようだった。彼らの存在を尊重はしているが、あくまでも一線を引いて接している――そんな印象だった。
 しかし、ソウタにとって、ホロンとは「人」である。流星群の夜にも彼はそう宣言していた。その際に波留はソウタに理解を示したが、実際の自らの考え方は相変わらず変わっていなかったようである。
 ソウタは顔を上げた。目の前に立っているホロンを見上げる。
 そこに佇む秘書用アンドロイドは微笑みを浮かべていた。眼鏡の奥から目を細め、ソウタに視線を送っている。視線を合わせようと試みている様子であり、それは命令を受けるための待機状態だった。
 黒髪の青年はそれを認め、小さくかぶりを振った。口許から溜息が漏れる。
「――それは君は波留さんから、どんな内容のメールを貰ったんだ?差し支えなければ俺に教えて欲しい」
 それからソウタはホロンにそう質問したが、実際に答えが返って来るかどうかの確率は半々だと認識していた。「メールを受け取った事実」は答えてくれても、その内容までを話す許可を波留から与えられているかどうかは判らなかったからだ。
 第一、メールの詳細などプライベートの範疇である。それを盾に情報公開を拒むように命令していても、ソウタは波留を責める事は出来なかった。だからこの質問において、ソウタは命令の要素をかなり薄めている。
 ホロンは顔に微笑みを湛えて口を開く。対人プログラムに基く優しい口調で返答を発していた。
「マスターは、暫く人工島から離れるそうです」
 その答えを傍らで聞きつけていたミナモは息を飲んだ。――そんな大事になっているとは、思いも拠らなかった。
 波留さんは、この人工島から出て行ってしまったんだ。ホロンさん以外の、誰にも。何も言わずに。
 ミナモの脳裏に、黒髪の青年の後ろ姿が思い浮かぶ。その広く逞しい背中に結ばれた長い黒髪が翻る。しかし、振り返って笑いかけてくれる事は、本格的に期待出来そうにない。何せ、懸命に探そうにも、何の変哲もない中学生の少女には全く手の届かない距離をつけられてしまったのだ。
 どんな事情かは判らない。しかし、人工島から出て行ってしまうなんて、余程の事だろう。ならば――私へのメールの返信など寄越す訳もない。そんな必要、ないって思うだろう――彼女の思考はすぐにそこまで進んだ。
 大体、私は波留さんに、すぐに謝るべきだったのだ。なのに――と、ミナモの思考には昨日の昼間に共に過ごした友人の顔が思い浮かぶ。彼女は昨日、神子元サヤカと伊東ユキノの両名に諭されて、負い目を抱いていたその青年に連絡を取る決心がついたのだ。
 しかし、今となってはその4日間のタイムラグが、自分とその青年の間に致命的なまでに深い溝を刻み込む結果となった。ミナモはそんな結論に至り、途端に落ち込んでしまう。
 一方、ソウタは半々の確率の賭けに勝っている。ホロンから答えを引き出す事に成功していた。
 とは言え彼は、自身何ら特別な事はしていないと理解している。ホロンの「マスター」たる波留が、この問い掛けに対して何ら制限を掛けていなかっただけの話なのだろうから。
「波留さんが人工島から何処に向かったのか、そこは訊いてないのか?」
「はい」
 重ねて問うソウタに対し、ホロンは僅かに眉を寄せた。御期待に添えなくて申し訳ない――そんな印象を持たせるような表情を彼女は選択していた。
 ソウタはそんな彼女をちらりと見る。そして眉に皺を刻み、両手を組んだ。考え込むような仕草を見せる。
 彼の脳裏には、ある9月初頭のやり取りが去来していた。あの頃は未だに波留は再電脳化しておらず、ドリームブラザーズの兄弟ダイバーが少なからず補佐をしてくれていた。その彼らの元に波留は居候の身であり、ソウタはそれとなく彼の近況を訊いた事があった。
 ――その時、彼らは何と言ったか?
 2ヶ月を経た現在、彼らが述べたその具体的な地名が、ソウタの脳裏をよぎる。
 結局波留は再電脳化し、メタルダイバーとして復帰した。人工島で仕事を請けるようになり、結果的に彼の中から帰郷の考えは立ち消えたと思っていた。しかし、実際はそうでもなかったのだろうか?
 やがてソウタは顔を上げた。静かに言葉を発する。それは、熟慮の末の発言だった。
「――だが…――人工島から離れるなら、まずは国際空港か」
「航路を利用なされた可能性もありますが」
 ソウタの言葉に、ホロンはやんわりと言葉を挟む。別の可能性を提示した。それにソウタは右手を挙げた。反論の意を示す。
「空路に較べてフェリーでは時間が掛かり過ぎる。勘付いた俺達に追い付かれる危険を、波留さんがみすみす冒すだろうか?」
「それもそうですね」
 ホロンはそう答え、黙礼する。AIがもたらす理論的思考からソウタの意見の正当性を認め、尊重した。
 そんな彼女にソウタは視線を送る。瞼を上げたアンドロイドに視線を合わせた。じっと見つめ、告げる。それはアンドロイドに対して命令を送るプロセスめいた行為だった。
「個人所有の交通手段は人工島では論外だから、この際選択肢から外す。国際空港の今日の搭乗記録を調べて、波留さんの行き先を割り出してくれ」
「個人情報の開示の条件として、各航空会社のカウンターからは何らかの権限の提示を求められるかもしれません。その場合、如何なさいますか?」
「部長代理権限を用いてくれて構わない。でも、不必要に明示しないでくれ。出来る限り事を荒立てたくはない」
「了解致しました。しばしお待ちを――」
 その返答と一礼を残し、ホロンは瞼を伏せた。ソウタの前に立ったまま、沈黙する。おそらくはソウタの指示をこなすべく、航空会社へと問い合わせを送っているのだろう。そして暫く、相手方とやり取りを続けるはずだった。
 波留が自らの意思で何処かへ消えた。これは異常な事態ではある。しかし今のホロンとのやり取りは、統括部長代理としての通常業務と同じようなやり方だった。有能な秘書へ明確な指示を出し、それを実行して貰い結果を待つ――そう言う手法である。
 一旦落ち着いたソウタは、視線をホロンから外した。ちらりとミナモを見やる。
 そこに立ち尽くしている少女は、縋るような目でホロンを見ていた。彼女もまたホロンの問い合わせの結果を待ち望んでいると、第三者からも良く判る姿だった。
 そんなミナモの姿に、ソウタは今日何度目か判らなくなってきた溜息をついた。

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