「…え?」 ソウタからの唐突な告白に、ミナモはそんな声しか出せなかった。 今その台詞を言った兄の声はかなり小さいものだった。静かな個室だったからかろうじて聞き取れるレベルの声量である。ともすれば、この静かなエレベーターの上昇音にすら掻き消されてしまうかもしれない。だから聞き違いかとも思えた。 ソウタは微かに口を動かした。相変わらず俯いたままで妹を見ないまま、その彼女に淡々と告げる。 「今回の依頼では、波留さんからは定期的に進捗情報を貰うようにしている。特に報告の時間帯を縛っている訳ではないから、多少音沙汰がなくても別に心配はしていなかった。しかし、ここ数日波留さんは俺に報告を寄越していない。それは紛れも無い事実だ」 静かに上昇してゆく個室の中で、ソウタは囁くような声しか出していない。隣に立つミナモだからこそ、かろうじて聞き取れる状態である。聞き耳を立てる少女の頭上からも、淡く明るい光が降り注いでいた。 「波留さんも忙しいし、連絡が来なくてもキリが良い所で進捗情報を出したいんだろうと思っていた。だから確認は取っていなかった。それを俺のミスと指摘されたらそれまでだが…」 ぼそぼそと呟く声がミナモの耳元に届く。その台詞の中に「俺のミス」と言う言葉が混ざっていた事に、彼女は気付いた。あまり良い響きではないその言葉を用いたソウタは、相変わらず俯いている。天井を頭上に仰ぐばかりだった。 ――この時点で、ミナモはこのソウタの態度の意味を理解した。少女が天井を見上げると、そこには明るい照明が輝いている。そして2061年の科学技術の最先端を往くこの電理研内部の設備なのだから、この何の変哲もないエレベーターにも目視不可能な装備があってもおかしくないと気付いたのだ。 それはこの個室内を外部から観察出来るカメラだろうと、ミナモは推測した。監視と防犯の双方の目的で、その手のものがあちこちに設置されているのが現代社会と言うものだった。だから特別に不安視する設備でもない。 しかし、それは撮影されている側に何ら後ろ暗い所がない場合に限られる。 今のソウタは俯いたまま小さな声で喋っている。つまり上部のカメラの撮影範囲から口許を晒さないように心掛けつつ、声も周オンマイクに出来る限り拾われないようにしているのだろう。どうしてそんな振る舞いをしているかと考えれば、目の前の会話相手以外の誰かに、この会話内容を知られたくはないのだろう――。 果たしてソウタの呟くような言葉は続いている。 「…流石に連日何も言って来ないとなると、俺自身が書記長に何も報告出来ない。だから今朝、俺から波留さんにどうなってるのかとメールしてみたんだが…」 そこで電理研部長代理の台詞は途切れた。その先を言い淀む。唇を硬く結んだ。 「――…返事、来ないの?」 「ああ」 躊躇いがちなミナモの言葉に、ソウタはきっぱりと答えた。軽く頭を上下させ、その回答を態度で補強する。 「勿論、波留さんは多忙な人だ。メタルやリアルの海に潜ってる状況ではメールの返信は出来ないだろう。だから、俺はずっと待っていた。だってのに、夕方になっても返事が全然来ない」 言い募るソウタは顔を顰めている。眉を寄せ、唇を歪めていた。統括部長代理と歳の離れた友人との、公私共の立場が彼にそんな表情を浮かべさせたのだろう。 波留とソウタの関係には上下はない。しかし依頼主とその依頼をこなすメタルダイバーである以上、定時報告は絶対になされなければならない。そして委託ダイバーとは言え電理研外部の人間に過ぎないのだから、通行パスや機材の使用履歴などは厳密に管理されるべきだった。 だが、この部長代理はその義務を緩和していた。それは波留真理と言う委託メタルダイバーが実質的にメタルダイバー達を統括する立場にあり、抱える実績も群を抜いていたからである。更に言えば、そんな実績以前の問題として、ソウタは波留を信用していた。4月以来の個人的な付き合いがそうさせていた。 なのに、彼が目の当たりにしている現実は、この体たらくだった。そうなると、端的な態度もこの若者の表層に垣間見えてくる。それを妹の前で晒している事にも、考えが行かなかった。 「――こんな礼儀を欠いた行為は、普段の波留さんからは考えられない。俺には彼が電理研には居ない事しか判らないってのに」 若き部長代理はそう言いつつ、大きくかぶりを振る。最早、見えざるカメラの存在が心に無い様子だった。 余裕を失っている兄を隣に、ミナモは戸惑っている。確かにこの彼は、この上なく信頼していた人間に裏切られた格好になっているのだ。ミナモにも、その気持ちは判らないでもない。しかし彼の口から出てきた台詞は、少々酷い表現だとも思った。 ともかくミナモには、ソウタの口から出てきた台詞には別件で気になった箇所がある。この状態の兄に声を掛けるのを多少躊躇いつつも、彼女はそれを指摘した。 「波留さん…今日、こっちに来てないの?」 「ああ。俺の権限で電理研への出入りした人間のログは全て調べられるからな」 問われたソウタは、半ば吐き捨てるように答えていた。心中の苛立ちがいよいよ隠し通せてもいない。 統括部長とは電理研最高幹部と位置付けられている。その代理であるソウタに与えられた権限も、ほぼ同等だった。彼はそれを行使したに過ぎない。 セキュリティの確保とプライバシーの保護は、相反しがちの概念である。だから権限があるにせよ、無闇に他者の情報を覗き見るべきではない。それが社会常識だった。しかし前者が犯されたと感じた場合、後者はどうしても蔑ろにされる。 今回のケースが正にそれだった。少なくとも権限を有しているソウタはそう思った。波留には重大な機密情報を調査させており、その彼から連絡が途切れたからだ。だからこそのログの精査だった。 その結果、本日11月8日において波留真理のパスは電理研内で一切使用されていない事が判明した。自身に「オフィス」としてあてがわれているダイブルームの一角を訪れていなければ、切り分けられたメタル領域に存在する「オフィス」にもログインしていない。リラクゼーションルームへの入室履歴も残っていなかった。 小さな個室に居る彼らの脚に、不意に押し上げる力が加わった。それはエレベーターの上昇が緩やかに減速してゆく事に拠って発生していた。 自らに降りかかるその感覚をソウタは感じる。床を見つめていたその視線を上げた。状況を確認しようとする。眼前のガラス状の壁面は紺碧を透過してきている。その色は、現在の深度が浅い一般区画までに至っている事を示していた。 ふと視線を横に向ける。すると、そこには彼の妹が佇んでいた。そして彼は、妹の表情が何処か奇妙な事に気付いた。何かに怯んでいるかのような――。 そこでようやくソウタは、自らの顔が強張っている現実に気付いた。左手を顔に当てると、眉間に深い皺が刻まれているのを感じる。内心の苛立ちがそこに表れていた。それを覆い隠せてない自分に気付き、途端に恥ずかしい心境に陥った。 しかし、それ程までに重大な事態なのだと自己弁護もしたくなる。このままでは電理研統括部長代理としての彼にも影響が現れる。今回の事件において捜査権を評議会に渡さない条件として、書記長への逐次報告が含まれているのだ。彼は波留にメタル内捜査を一任している以上、報告を上げられなければ書記長への報告も出来ない。 そして定時報告を行わなければ、いくらでも怪しまれ、付け入る隙を与える事となる。取り繕うにも限界があると、政治の世界に片足を突っ込んで3ヶ月を突破した彼は充分に理解していた。 が、その苛立ちを、妹の前で晒していい理由にはならない。兄として、そう自省した。 個室が緩やかにスピードを落とし、やがては停止する。軽やかな電子音が静かな室内に響き渡ると共に、傍らの扉がすっと開いた。 その扉の向こうには廊下が延び、付近には白衣の職員が闊歩している。このエレベーターに急ぎ足で向かって来る者も居た。 「――…単に、今日がダイビングショップへの出勤日って訳でもなさそうだ」 一般区画を歩いている職員を視界に認め、彼は取り繕うような口調で言った。 右手を添えた松葉杖をゆっくりと握り締めた。壁面から背中を引き剥がす。設置する先端に力を込めつつ、彼はその場に立った。 やってきた職員が開いた個室前に到達し、現在下りようとしている乗客に会釈する。そこまで近寄った時点で、その青年が松葉杖を突いている事に気付いたらしい。慌てて身体を捻り、開いたスペースの片側に寄って位置を譲った。 ソウタは松葉杖と自らの脚を導き、個室と廊下の敷居を跨ぐ。その後ろから人工島中学校の制服を纏った少女が続き、改めて乗り込んだ職員に対して大きく会釈して退出して行った。 |