兄からそう問われた瞬間、妹の身体が強張る。立ち止まっていた体勢のまま、更に靴底が床に張り付いたかのように一瞬震えた。その振動が彼女の髪とリボンを揺らす。動揺の色は第三者から見ても明らかだった。 しかしそれは長くは続かない。強張った表情は徐々に緩和してゆき、口許には苦笑いめいたものが浮かんでいた。それは普段の彼女らしくない表情である。少なくとも傍らでその変化の一部始終を見守った兄は、そう感じた。 俯き伏し目がちな少女の口許から、やがて答えがもたらされる。その声は小さく控えめだった。 「…ううん」 その答えと共に、ミナモは僅かに首を横に振った。明らかに意気消沈している。 「…そうか」 一方、妹から答えを得たソウタはそれだけ言い、瞼を伏せた。右手に握られた松葉杖に重心を移しつつ、左手を顎に当てた。考え込むような仕草を見せる。立ち止まったままで、再び歩き出す様子は一切無い。 漂う沈黙に、ミナモは佇む兄を不安げな瞳で見上げた。――その事情を、この兄は知っている。その件で、彼女は早朝からこの電理研を訪れたのだ。 その過程において、久島の義体が立ち上がると言う事態を目撃したが故にこのような検査に付き合う羽目に陥ったのだが、そもそも彼女が抱えていたものは全く違っていた。だから、ペーパーインターフェイスを手元に置き続けたのだ。 しかし、彼女の願いは叶わなかった。現時点において、その人物からのメールは届いていない。肩提げ鞄に収まった携帯端末の待ち受け画面には、全く変化がなかった。 だから、少女としてはこの結論に至るしかない。眉を下げ、再び苦笑いを浮かべた。 「――…私、やっぱり波留さんに嫌われちゃったんだね…」 その台詞に、兄は顎から手を外した。瞼を上げ、横目でちらりと妹を見やる。明らかに普段の快活な彼女のイメージからはかけ離れている現状を視界に入れた。しかし彼の表情は変わらない。物憂げに考え込んでいる様子だが、この兄には妹の現状は予測の範疇らしかった。 ミナモの数歩前に立ったままのソウタは無言である。見るからに落ち込んでいる妹を慰めもしなければ、逆に窘めても来ない。それに乗じてミナモもそれ以降何も言い出さなかった。自らの思惟に浸る。 ――普通に考えれば、引っぱたいて嫌いと罵倒してきた相手から今更メールが届いた所で、どんな心の広い人間が返信して来ると言うのだろう。いくらあのひとだからと言って、その目論見は絶対に甘過ぎたんだ――そんな、何度目かの後悔に苛まれていた。 彼女の口許から溜息が漏れる。空調の音すら感じ取れない程の静謐な廊下に、その音が微かに響いた。 それに、ソウタはようやく表情を動かした。眉を寄せる。若干憮然としたような顔を見せ、左手をうなじにやった。そのまま後ろ髪を掻き上げる。そしてミナモを見やったまま、告げた。 「――実は、そうとも言い切れないかもしれないんだ」 「…え?」 もたらされた意外な言葉に、妹は顔を上げ、兄を見た。ふたりの視線がかち合う。 それを合図にしたかのように、ソウタはミナモから視線を外す。前を向いた。左足と右手で支える杖の両方に体重が掛かるように重心を移動させ、ゆっくりと杖を前へと繰り出した。杖の先端が床を捉え、若干の硬い音を立てた。 歩みを再開した兄を、ミナモはぼんやりと見送る。しかし少女はすぐに我に帰った。慌てて白衣の背中を追う。右脚を痛め杖を突く兄の隣に、健康な妹はすぐに並んだ。 ソウタは、追ってきた妹を横目で見る。そして彼の歩みがふと止まった。ミナモはそんな兄の背中に勢い余って突っ込みそうになるが、何とか踏み留まる。少女の上体がつんのめり、白いセーラーが翻った。両手を振ってバランスを取り戻す。 立ち直ったミナモはがばと顔を上げて何かを言いたげな表情を浮かべるが、ソウタは彼女に背中を向けたままだった。ミナモは兄の背中の向こうに淡い光を見出す。 そんなミナモが怪訝そうに首を巡らせて覗き込むと、ソウタの前には端末コンソールが存在していた。彼はその上に左手をかざしていて、コンソールがメタル接続を表す淡い光を発している。そしてその壁面にはエレベーターの扉が存在していた。 接続時間は数秒程度で、すぐに小さな電子音がコンソールから発せられた。滑らかな音と共に眼前の扉もスライドして開く。 そんな状況から開錠キーが受理された事を確認し、ソウタは左手をコンソールから下ろした。足元に視線を向ける。設置している杖の先端をちらりと見た。それを持ち上げ、廊下とエレベーターの間を僅かな隙間を跨ぐ。自らの身体を狭い個室へと導いた。 無言のままの兄の背中を追い、ミナモはそれに続いた。軽い足取りで飛び込び、エレベータの床が僅かに軋む。部屋が少女の体重を受け止めた後、背後の扉がゆっくりと閉まった。 先程のソウタの操作で既に情報が送信されていたのだろう。扉が閉まると同時に、その個室は静かに昇り始めた。 天井からは冷たい光が降り注ぎ、透明な素材の壁面には僅かに蒼さを保っている深海が映し出されていた。上昇するに従い、その蒼は徐々に濃くなってゆく。海上からの太陽の光が深海に届くにつれ、人間の眼が色を認識し始めるからだ。 今まで彼らが居た区画は、秘密裏な検査を行う事もあるために一般職員が立ち入る事が出来ない階層に存在していた。電理研と言う組織を収めたこの海底建築物の構造はある意味判り易く、立ち入る許可が与えられる人間の数と深度は反比例している。そして今、ソウタとミナモはその階層を上昇して行っていた。 エレベーター内のコンソールには、上向きの矢印が点灯している。そしてその下に表示されている数値はどんどん減少して行った。滑らかに彼らを押し上げる力が両足に掛かるが、酷く大きな力ではない。 そんな室内に落ち着いたミナモは、壁際に寄りかかっているソウタを見る。彼は背中を壁面に預けていた。彼の右脇にある松葉杖を持つ手は添えられている程度の強さになっている。 ソウタ自身は瞼を伏せて沈黙していた。エレベーターに乗る前には妹に対して何かを言い出したはずだが、現在は微塵もその様子を見せていない。それをミナモは怪訝に思った。彼の隣に立ち、その先を促そうとする。 「――ねえ、ソウタ…」 妹のその声に、兄は瞼を開けた。ちらりと視線を上に向ける。そこにある天井は音もなく発光している。それを見やる彼は、何かを見定めるような視線を送っていた。 そして彼は妹に視線を移す。無言で左手を挙げ、掌を自分の方へと向けた。自らを指し示すような、妹を呼び寄せるような、そんな仕草である。 兄のその態度に、ミナモは小首を傾げた。一体何を言いたいのだろう――少女の中にその疑問が沸き上がっていた。しかし当の兄は何も言わないままである。妹をじっと見たまま、沈黙している。まるで急かすような態度だった。 ミナモにはソウタが何故そんな態度を取るのか。その理由が現状全く判っていない。しかし自分が兄の傍に行かなければ、どうやら話を進めるつもりはないらしい。それは理解した。だから、彼女は一歩進み、兄の隣に立った。 するとソウタは僅かに顔を伏せた。俯き加減になる。天井からの光が彼の髪に降り注いだ。ミナモには、その横顔を晒す格好になる。 そして彼女の兄は、横目で妹を見やりつつも顔を俯かせたまま、言った。 「――波留さんからは、俺も連絡を貰ってない」 |