そのカウンセリングルームを出たふたりの義体は、最深部に至る進路を歩いてゆく。
 まず公的アンドロイドの女性が先導し、その後を壮年の男の姿を模した義体が続いた。彼は姿勢良く歩みを繰り出す。互いに人工物であるためか、ふたりは一切の無言を保っていた。
 部屋を退出する際に、そこに同席していた人間達に挨拶を行ったがために、最早彼らは振り向かない。後に残されたのは、電理研の制服の上から白衣を羽織った青年と、人工島中学校の制服を着た少女だった。
 ふたりきりになった時点で、彼らはどちらからともなく顔を見合わせた。そして無言で頷き合う。促すように兄が先に歩き出し、妹がその後に続いた。最早検査は終了し、当事者は去ったのである。彼らがここに居残っている理由はなかった。
 ソウタは松葉杖を突いているために、その歩みは遅い。廊下の幅はそこそこ広いし人通りも見られないのだから、ミナモはやろうと思えば彼の隣で共に歩く事も可能だった。
 しかし、彼女はあくまでも兄から一歩引いた地点を歩いている。それは遠慮している訳ではなく、歩みが不安定な兄に何かあった際にはすぐに庇えるように気を配っているに過ぎない。だからと言って、この妹には特別に兄への献身の意思がある訳でもない。介助士志望でその実習を続けているが故の、ある種の職業病だった。
「――ソウタ」
 そんな彼の背中に、ミナモは声を掛けた。
「何だ?」
 兄は振り返らない。白衣の背中のまま、背後の妹に応える。ミナモも歩みのスピードを変化させないまま、問い掛けた。
「AIさん、本当に歩けるようになったんだよね」
「ああ。見ての通りだ」
「ずっと車椅子だったのに…どうしてなんだろ?」
 兄妹は歩きながら会話を続け、ミナモは顎に手を当てて考え込むような仕草を見せつつそう言った。
 彼女にとっては「AIさん」と「久島さん」の無事が第一だったし、それは無事確保され、安堵した。すると、あまり重きを置いていなかったはずの「何故歩けるようになったのか」との疑問の方に意識が行く。そして彼女は、その回答を父やAI当人から訊いていなかった。だから、検査結果の一報を受けてやってきたはずのこの兄に改めて訊いてみたのだ。
 前を歩くソウタのゆっくりとした歩みは、質問を受けてからも変化しない。靴音と杖を突く音が規則正しく廊下に刻まれてゆく。その僅かな沈黙の後に、彼は口を開いた。
「今回の検査では、原因を究明出来ていない。今後の詳報を待ちたいが、それでも解明されないかもしれない」
 その応えは、平静な声でもたらされた。しかしその内容は、理論を重んじる普段の彼ならば絶対に納得行かないような代物である。簡潔な表現を用いるならば、これは「原因不明」なのだから。だが彼としては、専門の技師達がそう結論を導き出して検査結果を提出してきたのだから、その現実を認める他ない。
 背後のミナモからは返答は来ない。その沈黙にソウタは僅かに眉を寄せた。しかし杖を突いて歩いている身の上のため、振り向く事での姿勢変化は避けたい。だから背後を確認しないまま、彼は言葉を継いだ。検査結果が先に述べた事ならば、その次には自らの解釈を付け加える事とした。
「もしかしたら先生があのAIの設計時から、そうプログラムしていたのかも知れないな」
「久島さんが?」
 兄の推論に、ミナモは怪訝そうな声を出す。にわかには信じ難い話なのだが、確かにそう考える他ないような状況である。
 あのAIを造り出したのは久島永一朗なのだ。創造主たる彼が何らかの仕込みをあのAIの制動系プログラムに行っており、それが一定の時間差で発動した――そのプログラム構造は謎だが、「メタルの開発者」には他のどの技術者もどうしても敵わないのかもしれない。そもそもあのAIの存在自体が彼によって隠蔽され、ブレインダウン症例に陥った後の彼の義体や脳核を調査した技師の誰もがその存在を発見出来ていなかったのだから。それでこそ「人工島の神」なのだろう――。
 ともかくメタルに疎いミナモですら「久島さんならそんな事も出来ちゃうのかもしれない」と思ってしまう。逆にメタルの最前線を往くはずのソウタや今回の検査を行った技師達も、そんな少女と同一の結論を答えとして、強引にでも納得しようとしているらしかった。
 ミナモは歩きながら納得したように頷く。理由付けさえ出来たならば、あのAIがその脚で歩いた事は彼女にとってとても喜ばしい事だった。しみじみとした声で、感動が少女の口を突いて出てくる。
「ずっと歩けなかったのにいきなり歩けるようになるなんて…そんな不思議な事がAIさんにも起こるものなんだね」
 彼からは歩く機能が失われているはずなのに、そう訊いていたのに。何が起こったのかは判らないけれど、唐突に歩けるようになるなんて。今まで歩けなかったとは微塵も思えない姿で、きちんとその脚で立って歩いている。
 それは、まるで――。
 そこまで考えが至った時、ミナモの脳裏にはある車椅子の老人の姿が思い浮かんでいた。
 思えば、その彼に降りかかった回復と同様の事象ではないだろうか?片や人間、片やAIの違いがあるにせよ。
 そして、ミナモ自身、同様に車椅子を押していた。自らを介助担当として、彼の傍に居続けていた。そして同様に、歩けるようになった事でその役割は解消された。
 考えを進めて行くに従い、ミナモの頭が俯いてゆく。脚に重りでもつけられたかのようにどんどん歩みも遅くなり、やがてはその場に停まっていた。
 背後から足音が続いてこない事に気付き、兄もその歩みを停めた。床を捉える杖の先端を落ち着け、首を巡らせて振り返る。後方を確認しようとした。
 すると、そこには茶褐色の頭を俯かせて沈黙している妹の姿がある。その頭部に鎮座するリボンもその姿勢に合わせ、半ば伏せていた。
 その様子を数歩先から見下ろしつつ、ソウタは若干怪訝そうな表情を浮かべている。口を開き、何かを言い掛けた。しかし、僅かに首を横に振る。それから杖の位置をずらし、身体を安定させた。
「――なあ、ミナモ」
 彼は妹の名を呼んだ。その声の調子は冷静である。或いは、出来る限り感情を含ませないようにしているかのようだった。
 呼び掛けられたミナモはゆっくりと顔を上げる。先に立つ兄を視界に認めた。その顔には微笑みはなく、何処かきょとんとしている。呼ばれて初めて兄の存在に気付いたような顔だった。
 それだけ思考に没頭していたのだろうと、兄は解釈した。だから特に気分を害する事もない。むしろ彼の方が、妹を気遣うような表情を浮かべた。
 ソウタは無言のまま、口許のみを軽く動かす。一旦呼び掛けたものの、言葉を選ぼうとしている様子だった。
 そして、意を決したように、訊いた。
「…波留さんから…連絡、あったか?」

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