この邂逅に費やされた時間は、ミナモが実体験した待ち時間よりも短かった。そして楽しい時間とは、すぐに過ぎ去ってしまったと感じがちである。 久島の義体を有するそのAIと久島の脳核自身は、詳細な検査結果待ちの身分である。それに、歩けるようになったからと言って「彼」の立場が変化する訳でもない。 久島自身が意識を取り戻したならばともかく、「彼」は人間に従うAIである。蒼井兄妹が彼にどう対応しようが、法的には彼に人間としての人格は認められていない。その彼には電理研内部を自由に出歩ける権利はなく、また彼自身にもその意志はなかった。 そのため、彼は久島のプライベートルームに戻る事になる。車椅子を必要とはしなくなったが、その一室にて知識の閲覧依頼をこなし続ける任務に変化はない。 多少は室内を歩き回るかもしれないが、もしかしたら車椅子の代わりにデスク備え付けの黒革張りの高級椅子に腰掛けて相変わらず沈黙し続けるのかもしれなかった。 ともかく部屋から出なければ、その行動は制限されない。室内での行動は、メタルへの接続を含めて彼の自由だった。そもそも彼がAIである時点で、制限を加えているも同然である。だから人間達は過剰な心配はしていない――或いは「人工島の神」とも「電理研の皇帝」とも謳われた偉大な人物の知識と記憶を引き継いだ存在の行動を、メタル内で阻止出来る訳もないとの諦めもあったのも、事実である。 公的アンドロイドを伴い、久島の義体は電理研最深部に位置するプライベートルームへと戻る。その区画への道程は一本道であり、立ち入りが許されている人間は両手で数えられる程である。 そして蒼井兄妹はその数少ない枠内に入り込んでいる人間達だった。望めば、彼らは何時でもそのプライベートルームを訪れる事が可能だった――無論、自重が入り込む余地も多い。 「――蒼井ミナモ」 その別れ際、久島の義体は不意にミナモに呼び掛けていた。杖を突いている兄の傍に立っていた少女は、義体に顔を向ける。 「君には迷惑を掛けた」 彼の口からは、相変わらず淡々とした声が漏れていた。その口調で、無表情に、また同じような言葉を繰り返してきている――ミナモはそう認識した。だから先程と同じ態度を取る。「判らず屋」に対し、口を尖らせた。 そこに、次の言葉が届いた。 「隔離病棟での3週間、本当に世話になった。久島のぶ代からの依頼だったとは言え、君の献身には感謝する」 この言葉に、ミナモは眼を瞬かせた。自分が何を言われているのか、全く理解出来なかった。口調は無感動なままで変化していない。しかし、言葉の内容が今までとは違っている。定型文の一種かもしれないが、そんな風に気を回すような「人」だったろうか――? 疑問符を頭上に浮かべたままのミナモに、義体はその言葉を告げた。 「ありがとう」 ミナモは思わず義体の顔をまじまじと見てしまう。彼の口からは、謝罪ではなく礼の言葉がもたらされたのだ。 どちらにせよ、そんな台詞を言われるような事をした覚えは、彼女にはない。それでも、彼女が抱いたこの戸惑いは先程とは別種のものだった。 久島の義体はミナモに向き直っている。その彼はそっと右手を伸ばした。目の前に立つ少女に差し伸べる。軽く開かれた掌が、少女に示された。 ミナモはその手と義体の顔とを見比べる。そこに、彼は言葉を続けた。 「機会があれば、また会おう」 その言葉を耳にした瞬間、ミナモの顔が輝いた。そして義体の意図を把握した。両手を勢い良く伸ばし、差し出されたその右手を覆う。 その行動を目の当たりにした傍らの兄が何かを言い掛けるが、ミナモは全く意に介さない。彼女は人間としての体温を保った義手を握り、軽く振った。 「…はい!」 ミナモは元気良く頷いていた。覆って握り締める彼女の両手の中で、久島の義手の指が曲げられる。彼女と握手を試みようとしている様子だった。 ちらりと見上げると、義体の表情が僅かに和らいでいる。実は客観的には判らない変化だったのだが、少なくともミナモにはそう思えた。だから、嬉しい。 しかし、彼女の脳裏に、ある想い出が去来していった。 ――またいずれ会いましょう。 その声が通り過ぎてゆく。 久島とはまた別種の良い低音がミナモに向けられる。黒いシャツにインディゴブルーのジーンズ姿のラフな容貌の黒髪の青年は、ミナモにそう告げて握手を求めてきたものだった。 それは素晴らしい想い出のはずだった。しかし今となっては――。 両手を振るミナモの動きが、徐々に沈黙してゆく。表情からも喜色が消えて行き、口を噤んだ。 そんな少女を見下ろす久島の表情は、怪訝そうな雰囲気を湛えている。 |