ミナモが視界に認識していないデジタル時計が16時に到達した頃、この部屋の入り口に当たる扉を数度ノックする音が響いてきた。次いで、女性の声が室内のミナモに入室の許可を求めてくる。
 俯き加減にぼんやりと端末を見やっていたミナモは、その外部からの音声に顔を上げた。いきなり入室しないがための許可申請のためとは言え、無音の部屋に突然飛び込んできた音である。彼女は一瞬慌てた風に腰を浮かせ掛けたが、すぐに顔を扉の方へと向けた。
 その女性の声は、ミナモには聞き覚えがある。だから訝しく思う事はない。誰何に一言答え、入室を許可した。
「――蒼井ミナモ様。失礼致します」
 その声と共に、滑らかな動きで自動ドアが横滑りに開く。扉の向こうには黒髪をお団子状に纏め上げた眼鏡の女性が立っていた。数歩室内に足を踏み入れた後、ミナモに一礼する。
 ミナモは席を立った。慌ててソファーから腰を上げ、中腰で応接テーブルの前を通り過ぎる。自らに深々と頭を下げてくる女性の前に立ち、自分からもぺこりと頭を下げた。
 その女性は、検査室にて人間達に付き従っていた公的アンドロイドと同型である。彼女らは一様に電理研所属を示す制服を纏っていて、髪型も揃えているがために人間からは一見して「個人」の区別は付かない。しかし、彼女らを「お姉さん」と見なすミナモには、何となくだが区別が付くような気もした。
 その時、その「お姉さん」の背後から新たな靴音が響いてきた。
 かつんと確かな足音が近付いてくる。そして公的アンドロイドが入り口から室内への道程から一歩後ろへと引き、再び頭を下げた。彼女は、さりげなく道を空けた格好になる。
 そして女性型アンドロイドの陰から、彼女よりも若干背が高い人影が姿を現した。しっかりとした足取りでここまで辿り着き、そしてその足を止めた。ミナモに相対する。その姿を認めたミナモの口から、歓声が漏れた。
「――AIさん!」
「…蒼井ミナモ。君には迷惑を掛けた」
 ミナモは両手で胸の前に持っていって拳を作り、満面の笑みを浮かべている。それに対して眼前に立つ壮年の男は淡々とした口振りだった。その顔に表情らしきものは浮かんでいない。
 そこに立っているのは、「久島永一朗」の容貌を持つ男だった。
 彼は先程まで検査を受けていた当人である。その際には病院服を纏った上に様々なコード類を接続され、更には脳核の検査のためにその頭部フレームを展開されていたものだった。
 今は電理研統括部長のものと同種のオーダーメイドのスーツを纏い、綺麗に磨かれた革靴を履いている。首許のネクタイも乱れておらず、褐色の髪は整えられていた。元々統括部長は表情に乏しい面もあったために、その立ち姿は部長そのものだった。
 おそらくは電理研職員を始めとした人工島島民に目撃されても、同様に思われる事だろう。しかしその内面は全く異なっている。「彼」は「久島永一朗」そのひとではなかった。表現に正確を期すならば、彼は久島永一朗から容貌と記憶を引き継いでいるのだが、逆に引き継がなかったものも多い。その差分こそが「彼」を構成するに当たり、久島とは絶大な違いを形成するに至っていた。
「AIさん…何処も痛くないんですよね?」
 ミナモはその差異を認めている。彼女は笑いつつも若干の心配の念を込めてそんな風に質問していた。
 その問いに、義体は僅かに口を開いた。しかし声は発しない。その変化は、何処となく戸惑っているようにも見えた。しかしそれは、ミナモの台詞内に明らかに認識がおかしい部分を見出したからだろう。彼は返答しつつも、それを指摘する。
「…私には殆どの部位に痛覚を感じる機能が備わっていない。しかし私を検査した技師達からの説明に拠れば、ハードウェアとソフトウェアの双方に破損は見受けられないそうだ」
「じゃあ、いいんです」
 指摘された側にとっては、その認識の違いは差程問題ではない。だから自らの問いかけへの解答自体に笑顔になるばかりだった。本気で喜色を浮かべる。
 実の所、AIからの返答は、先程彼女の父が寄越した検査結果と変わりはない。しかし当人の口から訊くと、信憑性が増した気がした。
 更に言うならば、再起動直後にAI自身が行った自己診断からもかけ離れてはいない。新たな事実は発見されていないらしい。そこにミナモは安心した。
 無論、詳細な検査結果は後日まで待たなければ判明しない。しかし早急な対応を必要とするようなダメージはなさそうだった。検査で見落とされる傷がある可能性も否定は出来ないかもしれないが、ここは電理研直属の機関であり職員達の検査である。今回の検査で発見出来ないものが、他の機関や人間達に発見出来るとも思えなかった。
 彼自身の無事を喜ぶ少女を目の当たりにしつつも、その義体は無感動な視線を向けるばかりだった。やがて、彼の口から淡々とした声が再び漏れる。伏し目がちに言った。
「――蒼井ミナモ。今回の1件で私は君に要らぬ心配を掛けた。君には謝罪しなければならない」
 「謝罪」との言葉を選択している割に、この声色自体は全くそれを表していない。少女に対して僅かに下げられたその褐色の頭から、かろうじてそれを感じ取れる程度だった。
 そして頭を下げられた側は、それを敏感に感じ取った。だから彼女は胸の前で慌てて両手を振る。彼女には全く理解出来ない事態だったからだ。
「…え、何でですか?私、AIさんから謝られるような事されてないです」
「AIたる私は人間に仕えるべき立場だ。その私が人間の君に迷惑を掛けている。これは許されざる事態だ。申し訳ない」
 ミナモに対して僅かに頭を下げたまま、久島の義体はそんな言葉を続けていた。
 それに、ミナモはぽかんとする。彼女の理解の範疇を越えていた。と言うよりも、理解したくない言動だった。
 すぐに少女は口を尖らせる。右手の人差し指を立て、義体に突きつけた。眉を寄せ、自らの思いを告げる。
「何でいつもそんな事言うんですか?AIさんは人だって、私、何度も言ってますよね?」
 ミナモが今述べたように、事ある毎に彼には何度もそう言い聞かせているはずだった。しかしその度にこのAIは、あくまでもその「間違い」を指摘してくる。
 彼らは、今回もその轍を踏み続けた。AIは、自らにデフォルト設定されている命題を繰り返す。頭を下げた自らに突きつけられた人差し指をちらりと見やるが、すぐに瞼を伏せた。
「私はAIであり、人間とは違う。AIたる私に、その不文律は犯せない」
 何を言っても結果は再現され続ける。ミナモはそれを目の当たりにした。――本当に頑固な人だ。彼女はそう思う。それがAIの設定ならば仕方のない言動なのだが、AIやアンドロイド達をあくまでも「人」と見なしたい彼女にはそれを理解したくはなかった。
 だから、今回も反駁する。「この判らず屋」に、もっと言い聞かせたいと願った。
「だから」
「――それに君を泣かせては、久島永一朗にも波留真理にも申し訳が立たない」
 意図しての言動かは判らない。しかしAIの言葉がミナモのそれを遮ったのは事実だった。
 そしてそれ以降、ミナモの言葉が続かなかった。ぐっと黙り込み、突きつけた右手の人差し指が下がり、解けた。そのまま両手を重ね合わせ、自らの胸元へと導く。口を紡ぎ、俯き沈黙した。
 沈黙のみが返ってきた義体は、顔を上げた。眼前のミナモに視線をやり、僅かに首を傾げた。
 ミナモから反駁は来ない。しかし様子を見るに、どうも自分の意見に納得した訳ではなさそうだった。何か他の事に気を取られてしまったが故に、自らに反論する気が失われてしまったらしい――彼はそう判断した。
 しかし、それ以上の類推は、彼には不可能だった。人間の感情の動きに乏しい彼には。だから、首を傾げるばかりである。そしてその疑問を少女に投げかける事もしない。
 ふたりの傍らでは、公的アンドロイドが微笑みを絶やさずに控えている。
 
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