時間は絶対的な概念のはずだが、人間は相対的なものとして捉えがちである。だからこそ人は絶対的に時間を計測する時計を手放さないし、現代社会において時計を意識して生活するのだろう。 卑近な例を見出すならば、無為な時間を過ごさねばならない待ち人には時間は長く感じられるものである。現在のミナモにも、その法則は適用されていた。 彼女の手の中には、暇潰しのツールに当たる携帯端末がある。その待ち受け画面では、ダップーと言う名の犬のアニメーション画像が走り回っていた。 女子中学生らしいマスコットのアプリがプログラム通りに画面を彩る。その片隅にはデジタル表示で現在の時刻が示されていた。その計時を確認するに、彼女と父との面会が終わってまだ10分も経過していないらしい。しかしやはり人間にとって時間とは相対的なもので、彼女にとっては1時間は待たされた心境になっていた。 現在、ミナモは検査室から離れ、別室へ移されている。 この一室も電理研直属の検査区画に位置している。本来ならばここは、医師が患者に病状や検査結果などを事細かに説明するための部屋――カウンセリングルームだった。 市井の病院ではなく、電理研内部の機関で診察や検査を受けるような人間は、決して健康体ではないだろう。そんな彼らの緊張を少しでも和らげるような印象が、この部屋には漂っている。白を基調とした室内ではあるが、目に眩しくはない。対照的に黒を基調としたソファーと応接テーブルは落ち着いた色合いだった。 ミナモはその長ソファーのひとつに腰を下ろし、携帯端末を眺めている。彼女の隣には最近持ち歩いている小型の肩提げ鞄が鎮座していた。 そんな場違いな少女は、無意識のうちにこの部屋の恩恵を受けている。「不安がっている」と言う点において、この部屋が想定している患者などと同一の立場だったからだ。そしてその不安は完全には解消されない点も、患者達と同一である。 大抵の待ち受けアプリでは、画面の中央部は空きスペースとして確保されている。何らかの状況変化が生じた場合、そこにメッセージを表示するためだった。 しかし彼女はこの半日、そこに何も見出していない。彼女はその変化こそを待ち望んでいたが、その願いは叶えられていない。友人からメールなりが届けば勘違いも出来たかもしれないが、その機会すら与えられてはいなかった。 ミナモは、今朝から、ある人物からのメールの受信を欲している。 本当ならば実際に顔を合わせて会話したかったのだが、自身にも色々降り掛かったがためにその機会を作れていない。相手がこの電理研内に居てくれて、たまたまリラクゼーションルームで出会うとか、そう言う偶然を望みたかった。しかし彼女も多忙であり、リラクゼーションルームを覗く時間も短かった。 それでもいくら休息を摂る人間が多い昼時に訪問時間を合わせたとは言え、昼夜を問わず働いている相手にその法則が適用されるかも怪しかった。一縷の望みを掛けては見たが、やはり彼女はその存在を目撃出来ていない。 だから、せめてメールを送っていた。――お久し振りです、お元気でしたか?――その程度のメッセージだった。しかし、受信したからには返信してくれるだろう。お互いに一言ずつから始めてでも、どうにか会話の糸口を掴みたかった。 ミナモの視線は待ち受け画面に注がれている。そこを所狭しと走り回る元気なアニメーション犬を、ぼんやりと見ていた。この犬は彼女の昔馴染みのキャラクターであり、成長した今でも大好きだからこそ現在の待ち受けに使用しているはずである。しかし、今はそれを見ていても全く心躍らない。思考がそこに向いていかない。 不意にミナモの脳裏には、黒髪の青年の姿が思い浮かんでいた。あまり整えられていない黒髪は無造作に後ろで纏められているが、同じ程の長さである茶褐色のミナモの髪よりも艶やかだった。 彼はいつも柔和な笑みを浮かべていて、一回りも年下の――実年齢はそれ所の騒ぎではないのだが――ミナモにも礼節を保ち、接する態度を変えない。 彼女の同級生と出会った際にも紳士的な態度を取っていたのだから、そう言う性格なのだろうと彼女は思う。自分が特別扱いされている訳ではないと理解はしたが、それが彼らしくもありそう言う面が好きなのだと自覚していた。 そんな彼の優しい笑顔は、出会えば何時でも得られるものだと思っていた。 ミナモは彼と連日連絡を取っている訳ではない。ある意味気紛れに、思い立ったらメールを送ったり端末を用いて電通したりしていた。特に用事がなく、それこそ今回のような「お元気ですか?」程度のメールを送る日も多い。そしてそんな他愛もないメールにも返事を寄越してくれるのが、今までの彼だったはずである。 しかし、今日に限って、返信が一切来ていない。 メールを送受信出来ない環境に居るのかもしれない――ミナモはそうも思いたいのだが、この人工島の住民である限りはその可能性は限りなく薄い。メタルには常時無線接続が確保され、現在の彼はミナモとは異なり電脳化済である。メールが自らのメタル領域に受信されたならば、即時に電脳にアラートが表示されるはずだった。 多忙な彼である。受信はして目を通していても、返信する暇がないのかもしれない――そうも思いたいが、ここまで時間を開けた以上、その可能性も低い。 多忙な彼はリアルとメタルの双方の海のダイバーをやっている。そしてその双方の海はそれぞれに危険であり、仕事中に余計な事に気を回していては生命にも関わるだろう。だから仕事中には業務外のメールのやり取りをこなすとは思えない。だから、暫く待っても問題ではなかった。 問題なのは、ここまで待たされていると言う事実である。 双方のダイブは生命の危険を孕んでいる。潜っていれば空気なりAIRなりを消耗し続け、その補充がままならなくなれば最悪死に至る。人間と言う種の生命体が「海」に適応していない以上、それは当然の話である。 2061年現在においては様々な技術の進歩により、海での活動時間は延長可能となっている。しかし余程大きなプロジェクトでもない限りそのような重装備は用いないだろう。 数ヶ月間バディをこなしたミナモの実体験からすれば、メタルダイブにおける活動限界は1時間も確保されていない。リアルの海でのダイブも似たようなものだろうと推測はついた。だから、今では既に仕事も終わり、彼は陸なりリアルなりに揚がっているはずだった。 時間に左右されないのがメールの利点ではあるのだが、日常的に利用されるコミュニケーションツールとなった現在では返信にあまり時間を置く事は好ましくない。礼儀正しい彼がそれを判っていない訳はなく、仕事を終えたならば一言だけでも返信してくれるはずだった――今までの関係ならば。 無論、「返信が来ない」言い訳は少女の中でまだまだ思いつく。 疲れているならば、揚がった後でも余計な事に気を回したくはないだろう。特にメタルダイブとは電脳を酷使する仕事だ。それを終えた直後は、電脳を休めたいだろう。或いはダイブ中に何らかのトラブルが発生し、暫く電脳を休めるべきとの判断が下されたならば、たとえ一言メールであっても送れないだろう。 以上のように、ミナモには、色々と可能性は思い付く。 しかしそんな些細な言い訳を吹き飛ばすだけの結論も、彼女は導き出してもいた。だが、それを認めるのが怖い。 ――単に「彼女には返信したくないから」――そんな単純な結論が彼の中に見出された末の、この沈黙ならば、どうしよう――?そんな危惧が彼女の心を震わせる。 あの10月末に別れて以来、ミナモと彼との間には、全くやり取りが成立していない。 今日は11月8日である。1週間以上、何ら会話を成立させていない日々は、今までにも存在していた。 一番の長期間は、彼がアイランドに帰還して別れてからの40日以上にも渡るものだった。しかし、その頃は全く不安に感じていなかった。「会える時には会える」と信じていて、実際に会おうと思い立ったがいいが行き違いを続けた時にも酷い不安には襲われていなかった。 それと、今回との違いは何か。 それは別れ方が違ったからだろうと、ミナモは理解していた。あのアイランドでは「またいずれ会いましょう」――そう言って握手してくれた。翻って、今回の10月31日には、自分達は一体何をした? ――私が彼に嫌われるのは、それだけの事をしてしまったのだから仕方がない。なのに私はあの時、引っぱたいてしまった――。 嫌われても仕方はないとは理解している。しかし、実際に「嫌われた」との事実を突きつけられるのは――それを認めるのは、15歳の少女にとっては怖かった。 ミナモの手に握り締められたペーパーインターフェイス上では、ダップーが元気に走り回っている。その待ち受けの片隅に表示されているデジタル時計は冷静に時を刻んでいた。 |