2061年11月8日早朝。
 久島永一朗のプライベートルームにて、歩けないはずだったその義体が、自分の脚で立って歩いた。
 その場に同席し、目撃したのが蒼井ミナモだった。
 彼女は無論、それに喜んだ。涙さえ浮かべていた。
 しかし、そこでは在り得ない事が起こったのである。その義体――久島の容貌を模した義体に保持された久島自身の脳核に仕込まれているそのAIには、自らの義体を操作する制動系プログラムは殆ど実装されていないはずだったのだ。その設定は彼の電脳内での義体のプロパティから閲覧可能であるし、10月末の事件で彼の正体を知った義体技師やメタル技術者によって直に確認されていた。
 実際にそれまでのそのAIは、自らの両手すらまともに制御出来ていなかった。義体自体には実装されているハードウェアとしての回路に接続してかろうじて腕を持ち上げ、メタル用端末を利用していたに過ぎない。
 両脚に至っては、制御を試行した事もない。そもそも彼自身からの電通にて制御可能である電動車椅子を利用しているのだから、無理矢理に立とうとする必要はない。それに彼は自発的に移動しようともしないのだから、脚の機能が一切廃されていても自他共に全く問題はなかった。
 だと言うのに、彼はその時歩いた。
 四肢の機能を失った人間がその脚で歩くには、何らかの奇跡が起きなければあり得ないだろう。更に言うならば、彼は人間ではない。インストールされたプログラムの通りに動作するAIである。肉体的な奇跡など起こり得る訳もない。
 発現した事象に困惑した技師達は、その答えを導き出さなければならない。その義体やAIに果たして何が起こったのか――それを調べ尽くそうとしていた。現在この施術室で行われている作業が、それに当たる。
 ところでこの事象を当初目撃したのは、ミナモ只独りである。彼女が技師達に報告しなければ、その事象は彼らには一切認識されなかったはずだった。
 そしてミナモには、久島の治療に当たっていた技師達にAIの存在を一切告白はしなかった過去がある。真実が明らかになったのは、あの占拠事件と言う切迫した事態があってこそだった。
 AIさんがそれを望まないから――少女の中での行動原理はそれである。他者が守りたい秘密を進んで暴露する趣味は、彼女にはない。
 ミナモには義体工学やプログラミングの造詣は一切ない。それどころか、彼女は、そのAIや彼女が「ホロン」と認識しているアンドロイド個体を「人間」と同一視している節がある。
 だから「AIさん」がその脚で歩こうが、彼女にとってそれは嬉しい事実に過ぎない。奇跡だろうが何だろうが、そんな喜ぶべき出来事が起こったならばそれはそれでいいと思う――この少女の内心に構築された理論とは、そんな感じである。報告した事で、逆に変にいじられるのを嫌がりすらした。
 しかし今回ばかりは、ミナモから連絡を取った。無論そのAIに了承は得ているが、それは彼女の方から申し出たのである。
 何故その行動に至ったのか。それは、彼らが1ヶ月前から馴染みがある知己の技師だと言う事実が大きい。彼らとは面識がありその人となりもある程度は理解しており、中学生の少女なりにその技師達を信頼していた。そもそも彼女の父も、メタル技術者としてそのチームの一員だった。ならば、酷い事はしないだろう――半ば願望ではあるが、残りの半分は少女の中では必然だった。
 そしてミナモが報告を上げるに至った理由は、それだけではない。
 歩いた事象とは違って彼女自身はその現場を見てはいないのだが、室内や義体自身に遺されていた衣服の乱れなどから鑑みるに、どうもそのAIは車椅子から転落して倒れたらしいのだ。
 それだけならまだしも、ミナモに発見された時点で彼は気を失っていた。AIとしての表現に則るならば、AIとしての彼は起動を停止していた。
 これらの状況証拠を合致させた上で導き出されるのは「転倒し、頭部を打ち付けた事で彼のAIや久島の脳核なりに物理的な干渉が発生し、それによりAIが起動を停止した」――AIや義体への専門知識が皆無であるミナモではあるが、そこまでの推測は可能だった。
 逆に言うとミナモは介助士志望の学生であり、その将来へ向けて座学や実習を堅実に積み重ねてきている。制動系プログラムがインストールされていないが故に歩けないそのAIを、肢体不自由者と同様の扱いとすれば、彼女にはイメージとしてしっくり捉える事が可能だった。
 ならばそのAIにも肢体不自由者同様に転倒の危険性を考慮すべきである。そして仮に彼らが転倒した結果、昏倒してしまったならば、頭部を打って脳にダメージを受けている可能性が高い。たとえ一時は意識を取り戻しても、脳には損傷が残っている可能性も否定出来ない。だから早急に精密検査を受けさせるべきであると、この女子中学生には介助士の常識として刷り込まれていた。
 ――以上の様々な理由から、その義体が歩くのを目の当たりにしたミナモは、その喜びが一旦落ち着いた時点で担当の義体技師達に連絡を入れたのだった。
 介助士志望の少女としては、彼が歩いた事実よりもまず昏倒した事実の方が重い。特に「彼」は、AIである自身と、その彼が組み込まれている久島永一朗の脳核とで構成されている。AIとしての箇所と生身の脳そのもののどちらか、或いはその両方とを損傷している危惧があったからだ。だからその方向での検査を依頼していた。
 が、大多数の電理研職員達には全てが秘密裏のまま、技師達が久島のプライベートルームに辿り着いた際、彼らが目の当たりにしたのは、「頭部を打った」と訊かされて検査すべきその義体が両脚で立っている光景だった。
 義体が今まで腰掛けていたはずの車椅子は、何処か居心地が悪そうに黒色の盤面を持つデスクの向こうへと追いやられていた。そしてそのデスクの前に、今までとは違ってベストの上からきちんとジャケットを纏った「久島部長」がそこに立っており、傍らには人工島中学校を着ている少女が何処か場違いに控えていた。
 その時点で初めて技師達は、義体の四肢が正常動作している事象を知ったのである。そして専門家たる彼らにとって、その事象はあり得ない出来事であり、解き明かさなければならない謎となった――研究者たる彼らにとっては、おそらくは検査よりも。
 かくして報告者と当事者、或いは検査する技師達とで「何の検査に重きを置くか、何を重要視するか」の点において若干のずれを保持しつつも、粛々とそのメディカルチェックと検査は続いていた。
 無論、互いに、重視していない方を蔑ろにするような事はない。それがプロの仕事である。彼らが検査対象にしているのが敬愛する「久島部長」との認識も、ある種の自重を促していた。
 「久島永一朗」としての生身の脳の検査には医師が割り当てられているし、AIや義体のハードウェアは義体技師の管轄になる。そしてAIを動作させるソフトウェアについてはメタル技術者の専門である。三種の技能者達は、各々の専門技能を用いて独りの全身義体を看ている事になる。そのため、必然的に検査の時間は長くなった。
 単なる中学生たる蒼井ミナモがその検査に付き合っているのは、第一発見者である以上に、彼女が置かれている立場に起因している。
 そもそも彼女が1ヶ月以上、場違いにその義体技師やメタル技術者集団と交流を持つに至ったのは、自身の「お友達」たる久島のぶ代から名代と指名されているからである。
 その齢90を越える老女はその苗字が示すように久島永一朗の実姉である。色々な事情を経てこの人物はミナモと友好を深め、結果的に15歳の少女に信頼を与えるに至った。そして人工島に居を構えるつもりもない彼女は、人工島における弟の「治療」をミナモに見守るように依頼し、その依頼は現在に至るまで一切撤回されていない。
 もっともその前提は11月4日に召集された臨時評議会において、若干の変更が久島のぶ代自身から提案され、決議されていた。現在では義体のみのメンテナンスについては、唯一の親権者たる彼女の許可を必要とはしない。つまり、名代が施術に同席する根拠も失われていた。
 しかし義体だけではなく脳核自体もチェックする必要がある今の状況では、その条項変更は殆ど意味を成さない。だからミナモは、相変わらずそのメンテナンス作業をガラスの向こうから覗き込まねばならない立場にあるのだ。
 とは言えミナモは彼らの作業においては全くの素人なのだから、彼らが実際に何をやっているのかの詳細は一切判っていない。仮に技師らが悪意や興味本位で何らかの仕込みを義体なりAIなりに行おうとしたにせよ、その少女には正規工程か否かなど見分けようがなかった。
 そんなミナモは、言ってしまえば、お飾りの名代である。強いてこの起用に長所を求めるならば「女子中学生の前で後ろめたい所業をやるのか」との大人の良心に訴え掛ける可能性を有している事かもしれない。
 とりあえずはその大人達が保持している電理研や在りし日の久島部長への忠誠心は本物であるらしく、1ヶ月前からその仕事振りは確かだった。そしてそれは、10月末の事件でAIの真実を知った今でも変化していない。電理研職員にとって「久島部長」とは、それ程までに偉大な存在だった。
 
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