周辺の壁は清潔な印象を与える白色で、天井から降り注ぐ光量は一定を保たれている。ある程度は人々の往来があるはずの床には塵ひとつ落ちていないようで、傷も見当たらない。
 その壁際にて、蒼井ミナモは黙り込んで椅子に腰掛けている。彼女を含め、その一室においては一切物音が聞こえて来ない。
 ミナモは俯き加減で、人工島中学校の制服のスカートが掛かる太股の上に置いたベージュ色の鞄を見ている。その下にある、彼女が穿いている白いスカートはどうにか膝の辺りまでを覆う程度の長さである。それが多少は気になるのか、少女は鞄を乗り越えてその裾を掴み、たまに伸ばしていた。
 そんなミナモの手の中には、ピンク色のペーパーインターフェイスが収まっている。その盤面には待機画面が表示されており、ダップーと言う名の犬のマスコットが所狭しと走り回っていた。そのアクセサリー以外に画面にデフォルト表示されているのは、現在の時刻のみである。特に意匠を凝らしてる訳でもない数字フォントがデジタル時計形式で明滅し秒を刻んでいた。
 ミナモはその端末を太腿に置いた鞄の上に更に重ね、盤面を見ていた。デジタル時計が明滅する微かな光が彼女の目に届いている。その規則正しい動作を見やりつつ、彼女の指がその盤面をなぞった。
 メタリアル・ネットワークが普及し社会システムに組み込まれ、更には無線接続がデフォルト化しているこの人工島において、未電脳化者の割合はそれ程多くはない。そんな世の流れに逆らう選択した人間には、メタルへの接続端末としてペーパーインターフェイスが支給されていた。これを使えば人工島での必要最低限のメタルの使用は充分に可能だった。
 それでも、目に見える世界以外と交流するためには、未電脳化者はこの端末を介さなければならない。脳そのものをネットワークに接続している電脳化者とは、そこが大いなる違いだった。
 ミナモ自身は、未電脳化状態を不都合だとは思った事はない。彼女が生まれ育ったオーストラリアのアリススプリングスにおいてはメタルは普遍的ではなく、結果的に未電脳化者の割合が大きかった事がその理由の一端だろう。彼女と同居し実母の代わりに面倒を看てくれていた祖母や先住民の血縁を保つ友人達は未電脳化者であった。成長するにつれて僅かに広がって行った彼女の世界においても、その現実は大して変化を見せなかった。
 彼女の世界の様相が違い始めたのは、人工島入りした今年の4月からである。同じ世界を作っていた祖母や友人達とは別れ、逆に再会し同居を始めた彼女の兄や父は電脳化していた。
 彼らは、電子産業理化学研究所――略称電理研との少々仰々しい名称の職場にて、それぞれにメタルを使いこなしていた。そして彼女が通う人工島中学校でもメタルを用いた授業が基本とされ、電脳化していない彼女は炊飯器ともメタルオカマとも俗称されている接続バイザーを授業中に被らなければならなかった。新たな友人達もメタルを遊び道具として当たり前に用いている。未電脳化者に合わせた仕様では、そんな遊びについていけない事もままあった。
 それでもペーパーインターフェイスを使えばメールは可能だし、電通代わりの通話も可能だった。所持している携帯端末でも無線接続は享受出来るのだから、手作業で文字入力を行ってのデータベース検索も可能である。
 そして電脳化している人間同様に、人工島が保持するサーバから一定のメタル領域は彼女に切り分けられており、そこへのデータの保存も充分に可能だった。そもそもメタルに依存していない人間は、保存するデータ量も電脳化者より格段に少ない。だから友人達と違って自らの脳をも保存スペースとしなくとも、彼女にとっては充分余裕があった。
 だからミナモは、電脳化しなくとも不自由を覚えない。その4月から「メタルダイバーのバディ」との役割を担う事もあったのだが、それでも自分なりにバディの役割を果たしてきたと認識している。「そのメタルダイバー」の事を想うあまりに一時は電脳化するべきか悩んだ事もあったのだが、結局その迷いは振り切れている。
 ふと、少女の脳裏に該当するメタルダイバーの面影が去来した。見上げる彼女の前に広がる穏やかな微笑みを浮かべたいつもの容貌が、思い浮かぶ。
 今までだったなら、それを何時でも懐かしむ事が出来た。しかし今の彼女の脳内では、その柔らかな表情がやがては一変してしまう。全てを凍り付かせるような冷たい視線を秘めた無表情が、彼女に向けられてしまっていた。
 現時点ではそれは彼女の想像に過ぎない。電脳を用いないミナモでは自身の記憶はデータ化されてはおらず、動画としての再生は不可能だからである。しかし、実際にその視線と表情を向けられた事があるからこそ、彼女は今、そう言う追想をしているのだ。
 実際にはそこまで酷い視線ではなかったかもしれない。少女が当時抱いた驚きと困惑が、その冷たい印象を強めてしまった状態で記憶に刻み込んでしまった可能性も高い。しかしその冷たい瞳を思い返すと、ミナモは思わず首を竦めてしまった。携帯端末に添えた手が硬直するのが、我ながら判る。
 自らの瞳は何かに怯んでしまっている。彷徨うように視線が端末の待機画面に辿り着くが、そこには脳天気に走り回る犬のアイコンが動作しているばかりだった。
 ミナモは、喉の奥から溜息めいた呼気が通り抜けていくのを自覚する。彼女が待ち望んでいるのは、この待機画面が解消される事態だった。
 ほんの少しの変化である。それだけで救われる心境になるはずだった。実際には更に開いてみないと判らないし、それを目にした時点で心臓が胸郭の中で踊り狂うような事態を引き起こすやもしれない。
 しかし、その到来は、この状況からの打破には違いないと信じていた。宙ぶらりんの現状は、彼女は望んでいなかった。
 ――新着メール1通。
 それだけの文字列を、少女は待ち望んでいたのだった。
 そして朝から抱かれていたその願望は、未だ叶えられていない。端末の待機画面の片隅で明滅するデジタル時計は、午前から午後への切り替えを主張していた。
 
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