|
その意識が徐々に現実へと回帰してゆく。 波留が今まで、閉じられた瞼の奥に感じていたのは、深海の暗闇だった。しかしまるで観測船からケーブルを引き揚げられるように意識が浮上する感覚を味わっていると、瞼の向こうにぼんやりとした光を感じ始めていた。 水深が浅い付近にまで戻ってきたから、水面に差し込む太陽の光を感じ取るようになったのか。そう解釈も出来るが、その光を感じるに従い波留の身体から浮遊感は失われた。代わりに、背中には硬いマットレスの感触が伝わってくる。 深海の冷たさが浸透していた指先にも感覚が戻ってくる。その指や手や腕は、横たわるマットレスの布地の微細な毛羽立ちを感じ取っていた。 ――どうやら、またしても海の夢を見ていたようだ。 波留は視界に広がる薄暗い天井に淡い木目を見出しつつ、そう思った。口許には笑みが浮かぶ。それは呆れたような苦笑だった。 北京へ向かう航空便から、眠る度に海の夢を見ているのかもしれない。僕は、そこまで海が恋しいのだろうか?確かに四方を海に囲まれていた人工島を離れたとは言え――波留は苦笑を伴い、そんな風に思考を巡らせている。 「海」とは彼自身を形作っている根源とも表現出来てしまえる。だと言うのに、今の彼が身を置いているのは、大陸の奥地である。海どころか水資源すら乏しい環境だった。だから、無意識下で海を求めているのだろうか?しかしそれは彼にとっても馬鹿馬鹿しい仮定だった。 熟慮するに値しないと思われる案件からは、波留は早急に思考を戻す。目覚めたついでにゆっくりと視線を横に向けると、じわりと頭に痛みが走った。 波留は思わず額に右手を伸ばした。反射的に痛みを覚えた付近に触れるが、痛いのはそんな表層ではない。患部に直に触れる事が出来ない現実に、彼はもどかしさを覚えた。 鈍い痛みを堪え、波留は溜息をついた。腕をマットレスに突き、ゆっくりと身体を起こす。身体に被っていた毛布がずり下がり、腰の辺りまで落ちた。未だ横たえている脚を覆ってゆく。 身体の節々が、その主に痛みを訴える。軽い痛みと倦怠感が波留の全身を覆っていた。 ――やはり僕は、風邪らしい。波留はそう判断ずる。しかし表れている症状はそれだけなのは、彼にとっては謎だった。咳とか出てくれば第三者にも判り易いだろうし、熱っぽさもあればもっと風邪の自覚も出てくるだろうにと思ってしまうのだ。 額に触れる指先が妙に冷たい。体調を崩しているのは、紛れもない事実らしい。瞼が重く腫れぼったい感じがするのも、その印象を補強する。 彼は髪を解いて眠りに就いていた。起き上がった今ではその長髪が顔の横を流れてゆく。しかし、彼はそれを払おうともしなかった。べたつく髪の一房が頬に張り付く。その髪の乱れ方は、病人そのものだった。 就寝前には、波留は部屋の灯りは消していた。完全な暗闇を苦手としていないのもあるが、彼なりに電力削減に貢献しようとしているからである。 そしてカーテンが引かれた窓からは、灯りが差し込んでくる気配はない。時計を確認はしていないが、夜明けには程遠い時間帯のようだった。 途端、波留は頭部に鋭い痛みを覚えた。息が詰まる心地がして、彼は額を押さえる掌に力が篭った。意識して呼吸をコントロールし、痛みを散らそうとする。 今までの鈍痛とはまるで別の痛みである。まるでメタルダイブ中のトラブルにより、電脳に多大な負荷が掛かったかのような状態だった。 鋭い痛みは最初だけだったが、それが脳にずきずきと響く。体調は本格的に悪いようだと、波留は思う。自らの鼓動に連動するように痛みが反復してくるからか、耳鳴りすら感じ始めていた。 額を押さえたままの掌には、顔に刻まれてゆく皺が深まっていくのを感じ取る。今では脳全体に鈍痛が伝播してゆき、首の根元までが痛くなっていた。 痛みに耐える波留は、細めた視界に光がちらつく感じがした。更に、耳鳴りに混ざり、何かを叩くような断続的な音が微かに聴こえている。――ああ、これはいよいよ危ないのかもしれない。幻視や幻聴とは――波留は靄がかかったような意識の中でぼんやりと他人事のようにそう思っていた。 それでも無意識に聴覚はその音を追っている。人間の感覚は、捉えた得体の知れないものを自らの脳でどうにか既存のものとして認識しようとする。その発露に過ぎなかった。 何か細かなものが色々な場所を叩いているような音が、あちこちから聴こえてくる。それは波留の頭上に位置する天井や、側面の壁と全く場所を限定されない。そして窓にも当たっているらしく、ガラス窓がぱらぱらと音を立てていた。 ベッドに腰掛ける波留の横に位置する窓からは、淡い光がぼんやりと動き回る様子が垣間見られる。その光が窓を透過し、波留の頬を柔らかに照らし出していた。波留自身も、暗いはずの室内にて床に長い自らの影がぼんやりと伸びて何重にもなっている事から、その窓からの光を自覚していた。 「――…え?」 その時、青年の口から唐突に声が漏れた。あまり回らない思考であっても、彼はその事態を認識したからだ。 仮に「窓から差し込む光」が幻覚であるなら、その光が波留に当たって影を作り出す事などあるはずがない。しかし現実には光学的に正しい現象が、この室内に発生している。つまり、その光は現実なのだ。 途端、波留の意識が一気に鮮明になる。大きく顔を上げ、右手を額から離した。ばっと勢いをつけ、横の壁に位置する窓を凝視する。窓の外の光景に目を凝らした。 そこには光がちらついている。いくつもの丸い光点が移動し、揺れていた。そこを更に良く見れば、その光点は人間達が握っているのを目撃する事が出来た。 外に、何人もの人間が出てきている。夜も更けた深夜だと言うのにだ。 そして波留が見ている窓には、徐々に丸い円が現れてゆく。ぽつぽつと言う音と共に円が転々と表れ、そしてその円から一筋の雫めいた模様が窓の下方へと引かれて行って――。 波留は目を見開いた。最早、頭痛など何処かに飛んでしまった。眼前に広がる光景を思えば、痛みなど感じている暇がなかった。 彼は窓に飛びつき、中央に取り付けられている鍵に指を伸ばす。単純な留め金方式のそれを上げ、窓に掛けられていたロックを解除した。 そして波留は、もどかしげに窓の端に手をかける。有り触れた引き戸タイプのその窓は、開錠された状態ならばあっさりと開かれた。 彼は深夜だと言うのに、音を立てる事を厭わなかった。そこまで気を回す余裕がなかった。立て付けの悪い窓はぎしぎしと鈍い音を立てつつも、強い力で波留に引かれてゆく。彼は窓をぴしゃりと言わせ、その端を中央部まで押し込んだ。窓を全開にした。 その瞬間、外に開かれた窓枠からは強い風が吹き込んできた。窓枠の端に纏められたカーテンを揺らし、それ以上に窓に向かい合っている波留の髪を大きくなびかせていた。彼の長髪が風を含み膨らむ。 視界を覆う自らの髪を、波留は一向に気にしない。只、その両眼をしっかりと開いて前を見据えていた。 そんな彼の頬にぽつぽつと何かが当たる。それは冷たく、体調が悪い彼の体温を冷やしに掛かっていた。そして当たった場所から次々と水滴が垂れてゆく。 風に乗って舞い込んでくる水滴が、波留の顔を濡らしてゆく。その量はどんどん多くなり、また水滴の大きさも増して行った。 窓に向かい合ったまま、波留は呆然としている。彼は顔ばかりか徐々に髪も水を浴びている格好となり、その水滴が垂れて首筋に張り付き、胸元の衣服まで染み込んで来ていた。その青年から狙いを外した水滴は、ベッドに落ちて若干シーツや毛布を濡らし始めている。 |