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ある程度の深度に至れば、無理に水を掻き分ける必要はない。流れに抵抗しない姿勢を保っていれば、自然に深海へと導かれる。それは、波留の潜水技量が人間随一であるばかりではない。腰に装着したウェイトが、そんな波留の沈降をサポートしているからである。 調査潜水とは、適切な機材を装備して実行する仕事である。安全を重視するのはスポーツとしてのフリーダイビングと同様だが、ダイバーの身体能力をサポートする装備が充実している点が幾分違う。 潜るためのサポートアイテムはウェイトだが、逆に揚がるためには彼のダイブスーツの背中に装着されたケーブルがサポートの役目を果たす事になる。波留が規定の合図を送れば、海上の調査船のメンバーが滑車を巻き上げケーブルを引き揚げる。それによってダイバーは余計な体力を消耗する事なく、海上へと生還する事が可能だった。 もしダイバーに緊急事態が発生したなら、電磁石であるウェイトは操作により容易に磁力を失わせる事が可能で、すぐさま海中に投棄出来る。それに加えて、ダイバーからの合図なしに海上からケーブルを強引に引き揚げるケースについての取り決めもあった。 その全ては、ダイバーの安全確保のためである。本来なら人間には厳し過ぎる環境である海中にて、身体的に選ばれた人間が仕事を行うのだ。安全策は何重に成されていても足りない事はない。 ダイブ中、波留の肉体の大半はダイブスーツに覆われている。これは冷たい水温から体温を奪われ難くするための装備であり、もっと単純な防御機構としては皮膚を外敵から保護するためのものだった。海中を漂う毒物や鋭い棘などを持つ魚介類への防御は勿論の事、切り崩された岩壁に多少接触しても引き裂かれない程度の強度が確保されていた。それでいて、ダイブと言う全身運動を阻害しない程度の柔軟性を兼ね備えている。 波留が身に付けているダイブスーツは、彼が所属する電理研によって開発された最新型だった。強度と柔軟性と言うある意味相反する要素を的確なバランスで併せ持つ生地を、波留の身体にフィットするオーダーメイドのサイズで作成している。 彼は電理研においては単なるダイバーではなく「観測装置」として位置付けられている。だから、全ては彼を「装置」として確実に起動させるためにあつらえられていた。 深海を目指す波留の視界に、水中に含まれていた気体が泡となり流れ弾ける光景が映し出される。彼の両眼はゴーグルによって保護されているが、その視界は良好である。 耳元では水流の音が響き渡る。その脇を、髪が水流になびき肌を掠めて跳ねていた。 グローブを嵌めていない両手には、海水の冷たさが指先から浸透してくる。それと同時に水圧を保った水流が腕をなぞり、胴体に至って両脚へと流れてゆく。彼は、その感触をしっかりと感じていた。 ダイブスーツに覆われていても、身体中にて海水の感触を理解出来る。それは彼の特性のひとつだった。いくら素材的にもサイズ的にも彼に合わせたダイブスーツであったにせよ、彼はそれをあたかも自らの肌の如く感じていた。 波留の目の前に広がるのは、紛れもない現実である。現実を認識する能力を阻害するものは何もない。彼は身体的に優れており、装備も充実している。安全の確保を認識している以上、何処まで潜ろうと彼は平静を保つ。それもまた彼を「観測装置」足り得る要素だった。 ――そんな現実の視界に、蒼い焔がちらつき始めたのは、何時からだったろう? 波留は思う。目の前に広がるのは現実であり、ならばそこに垣間見えるこの焔も現実であるはずだと。 残念ながらあの焔に直に触れるためには更に深海へと潜らなければならないらしく、それは流石の彼の身体能力すら超えた領域だった。しかしスポーツとしてのフリーダイビングは引退した彼だったが、潜水記録自体はこの調査潜水の日々で着実に伸ばしている。常人のダイバーでは到達出来ない領域を彼は見ていた。 ここまで来たのだから、更に先を目指す事も可能なはずだ。 あの焔に触れる事が出来れば、また別の現実が見えてくるのだろうか?新たな世界を知る事が出来るのだろうか? 波留の向こうに広がる昏い深海の果てでは、蒼い焔が踊っている。あたかも波留を誘うように。或いはからかうように。 彼にとっては幸いな事に、このダイブにおいては身体に取り入れた酸素はまだ充分に残されていた。だから、もう少し先を目指す事にした。 波留の耳元ではごうごうと低い音が木霊する。それは水流と水圧と自らの鼓動が織り成すハーモニーだった。 その最中に、やけに甲高い音が彼に認識された。 瞬間、波留は瞠目する。その音そのものと、その音を聴いた自らの感覚に驚いていた。 こんな深海では聴こえるはずもないイルカの鳴き声が、波留の脳に響き渡っている。そんな事は、現実ではありえないはずだった。 |