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一旦、秘書は食器類を下げるために食堂を退出した。しかしすぐに波留の元へと戻ってくる。 彼女が改めて掲げてきたトレイの上には透明なコップとタブレット入りの薬剤が乗っていた。コップの中には半ばまで水が満たされている。波留の前に立つと、その女性は滑らかな動きでトレイの上の物をテーブルへと導いてゆく。 波留は彼女の美しい動きを目線で追いつつ、口を開く。何気ない口調で訊いた。 「――ジェニー・円さんは今、何をなさってらっしゃるんですか?」 「ミスター円は現在、端末室でデータの照合をしております」 問われた秘書は、淀みなく淡々と返答していた。波留はそれに納得し、頷く。日中は畑に出て農業指導を行い、夜はそこで得たデータの分析とは、休む間もないとはこの事だと思う。 彼は全身義体だから多少の無理は利く身体とは言え、脳は生身である。睡眠などによって完全に休息を摂る必要性からは逃れられていない身の上なのだ。面倒かもしれないが、それ故に彼らを人間たらしめているはずだった。しかし、それ以外については「人間」を捨てているとも表現出来る。人間の根源欲求たる食事も、生身の人間と同じものでは栄養補給にはならない現状であって――。 そこまで考えを巡らせた時点で、波留は視線を上げた。そこには白い天井が広がっているが、中央に位置する室内灯は隅々まで照らすだけの光量を持たない。天井を形作る木材が組み合わさった微細な段差に、光が影をなして淡い濃淡を織りなしている。 波留が黙り込んでいる中、秘書は無言だった。その間に、薬などをテーブルに置き終えてしまう。その作業を終えた今、彼女がここに留まる理由はない。客人からこれ以上の問いが成されないのならば、一礼と共に退出するだろう。 無言の波留は風邪薬を手に取り、そのカプセルの包みを破いた。薄い銀色の包装紙がぱきりと音を立てる。それは小さな音だったのだが、室内のふたりが全く口を開いていないためにやけに大きく響き渡っていた。 その微妙な一拍がふたりの間に漂ったその時、波留は口を開いた。手元には開封されたカプセルを掌に落とし込んでおり、彼はその一点を見ている。 「――お忙しいでしょうに、彼が僕に食事を作って下さってるんですか?」 相手を見ないままその問いを投げ掛けた波留を、秘書は一瞥した。少なくとも、即答はしなかった。 波留は彼女のその瞳に、何処か呆気に取られたようなものを見た。彼女がそれを見せたのは、一瞬の隙だった。客人をじろじろと見やるのは、秘書として礼儀がなっていない行為だからである。 その惑いの印象は一瞬で掻き消えた。彼女は自制し、隙を覆い隠した。 しかし、波留は確実にその隙を発見していた。この女性もそのような顔をするのか――そう思い、何処か微笑ましい。あまりの有能さに秘書型アンドロイドかと思いたくもなるが、彼女とて紛れもなく人間だったのだ。 「…良くお判りでしたね」 僅かに口ごもった後に、秘書はそれだけを言った。無表情を保っているが、それは見ようによっては「固い表情」との印象にも取れる。その態度に、波留はしてやったりと思った。彼女は僕がそれに気付いた理由を、まだ勘違いしている。彼女にも見抜けない事はあるらしい――。 「僕が自力で判った訳ではありません。子供達に訊いたのですよ」 波留は笑って種明かしを行う。その笑みにいたずらっぽい意味が含まれていくのを、彼は止める事は出来なかった。 「まあ、僕も訊き違いかと思ったのですが…あなたの様子からすると、それはどうやら本当だったようですね。驚きです」 そこで波留は言葉を切った。いい加減掌の上のカプセルを処理しなければならない心境に陥ったからだった。厚くはないカプセルは彼の皮膚から熱を受け、放射される水分をも吸い取り柔らかくなりつつある。 仮に人体の熱でカプセルが溶けたら面倒な話だ。そう思い、波留は目を伏せて顔を上げ、口を開けてそこに掌を押し付けてカプセルを放り込んだ。勢い良く喉に当たる小さな物体を感じるが、すぐにコップに口をつけて水を何口か飲み込んで異物をその先に流し込む。 「…ミスター円が主導して育てた農作物です。生産した以上はその調理法を把握することも重要と訊いています。その方法を理解すれば効率良い栄養素の摂取が可能ですし、後々販売路を展開する際には作物の利点として宣伝出来ますから」 波留が黙らざるを得ない状況に陥った間に、秘書は少なくとも表面上は普段通りの平静を取り戻していた。平坦な口調で解説を加える。その態度は頑なとも解釈出来るような代物で、一瞬見せた隙を覆い隠すための鎧を着込んでいる。それは、若干の過剰防衛かもしれなかった。 薬を飲み終えた波留は、俯いてコップをテーブルに置いた。前髪が目許に掛かりつつも垣間見えるそこは、にこやかに微笑んでいる。 こうやってこの女性秘書のペースを崩す事で、彼女の感情がようやく波留の前に見え隠れする。そうすると、彼にはこの仕事のみに生きているような女性と世間話めいた会話を交わすだけの歩み寄りが出来たような気がした。だから、素直な気持ちで話を向ける。 「僕は、あなたが料理して下さってる可能性も考慮していました」 「私が――で、ございますか?」 秘書は目線を上げ、ちらりと波留を見やった。やんわりと胸にトレイを抱えて押し付けた姿勢で尋ねる。 問いかける台詞同様、彼女の瞳には怪訝そうな印象が漂った。どうやら、彼女にとっては意外な問いだったらしい。その感情は然程覆い隠されずに、そのまま口をついて出てくる。口調は相変わらず冷静そのものだったが、台詞の内容からは何処か綻びが見出せる代物だった。 「調理は必ずしも秘書の業務には含まれないかと、存知上げております」 「まあ…そうなんですけどね」 一見して真顔を保ったまま冗談を交える事ない秘書の返答に、波留は苦笑した。秘書とは本来は事務職である。彼女を雇う主を仕事に専念させるために、その周辺業務をサポートする役目を担っているはずだった。決して小間使いではない。そう言った業務をやらせたいのならばまた別の人間を雇うなり、そうでないなら今度こそアンドロイドをセットアップして使役するのが筋だろう。 …そうであるとは波留も理解している。しかし、彼らはこの寒村にふたりきりの異邦人である。秘書業務以外の事も行っていてもおかしくないとも思っていた。何より、客人たる波留の世話を全面的に看てくれているのは、この彼女である。そして、それは明らかに秘書業務とは言えないだろう。 波留は内心を誤魔化すように頭を掻いた。水不足のために大陸入りして以来洗えていない髪は、そろそろべたつき始めている。 正直な話この感触は少々不快ではあるが、この手の命に別状がないレベルの不便さは、彼は50年前の船上でも良く味わっていた。だから充分に許容範囲だったし、この村ではこれが当たり前のレベルなのだからそれを受け入れる他ない。世界レベルで考えると潔癖過ぎる日本人の性質とは面倒だと彼は思う。 「かと言って、彼が料理をすると言うのも不思議な感じで…いや、失礼な話ですが」 頭頂部の髪をいじりつつ、波留は更に軽口を叩いていた。内心を吐露する。それは大袈裟ではないが、実際に自身が言うように失礼な部分も存在する台詞だった。他者のイメージを勝手に規定し、現実はその範疇から外れた事に違和感を覚えているのだから。 秘書は無言だった。何も言わないまま波留に会釈し、彼の手元に残されているコップを手に取る。注がれた冷水が僅かに残っているそれを手元のトレイに乗せ、次いで風邪薬の包装材を摘み上げてまたトレイに導いた。 先程の波留の台詞は秘書への問い掛けではなかった。あくまでも彼の内心の吐露である。問われていないのだから答える義務も発生しない。だからもう波留には話し掛けない――そう言う論法が、この秘書の生脳に展開されたのだろうか。波留はそう解釈した。だから気を悪くする事もなく、彼女の背中を見送ろうとしていた。 そんな波留の耳に、女性の声が届いた。 「――おそらくは自身の料理の腕前を、他人のそれよりも信用していると言う事でしょう」 答えが返される事を全く期待していなかった。そして返された内容が意外な方向だった――波留はそのふたつの驚きが自らに沸き上がって来るのを感じ、思わず大きく顔を上げた。身じろぎしつつ、声を発した女性を見やる。 その頃には、その秘書は用済みの物品が置かれたトレイを掲げて食堂の入り口の前に立っていた。彼女は完璧な礼儀を保つ姿勢で一礼した。その態度からは、先程言葉を発したようには思えない。 寒村の古い屋敷である。木製の古ぼけた扉は多少立て付けが悪そうな動きをしていたのだが、それを導く秘書の手にかかると全くの無音で閉められていた。その動きを、波留は呆然と見やっていた。 ――このメタルを構築した奴は、余程他人を信用出来なかったんだな。 あの時のフジワラアユムの述懐が、再び波留の脳裏によぎる。不意に彼の記憶からそれを呼び起こしてしまう程に先程の秘書の台詞は類似していたし、何処か不穏だった。 彼女は、ジェニー・円の一番傍に居続けている人物である。人工島の生活を謳歌していた時期ならともかく、苦難に満ちたこの寒村まで付き従う程の忠誠心の持ち主である。お互いを信用していなければ、こんな真似は出来ないだろう。 そんな彼女すら、あの彼は真に信頼していないと言う事なのだろうか。そして彼女はそんな扱いを確信していて、尚あの彼に付き従うのだろうか。 しかし、そこまで考えた時点で波留は頭を大きく振った。瞼を伏せ眉を寄せる。そうやって彼は、脳内に去来した想いを否定し拒絶しようとしていた。 あの秘書の弁には、一切の他意はないはずだった。その一点こそが、例のアユムの述懐とは唯一絶対の相違点である。 ――きっと、言葉通りの意味合いに違いない。料理が上手いとか拘りを持っているとかで、自分で料理をしたい性質なのだろう。そう言う人間は男性にも珍しいものではない。僕だって常々、料理はいい息抜きになっているはず――そう解釈を加えようとした。例えそれが、実は自らの考えを強引に捻じ曲げようとしているにせよ。 僕は、何がそんなに気になるのだろう。 彼は尊敬に値する人物だ。確かに、過去に過ちを犯したかもしれないが、過去は過去だ。現在は着実にこの村を救いつつある。余所者が逗留し根気強く教えを説き、その結果子供達に尊敬され、寒村の村人達も認めてゆく。それでいいではないか。 ――何を、疑っているのだろう。 それも、理由もなく、直観で。 自らの心中だと言うのに、その結論に至る理論が全く説明出来ない。それがマイナス方向への道程なのだから、自分がとてつもなく厭な奴であるように思えてならない。 眉を寄せたまま、波留は右手を額にやる。掌底で額を押さえ、そのまま肘をテーブルに着いた。 彼の脳に差し込むような痛みが走る。すっかり慢性化してしまった鈍痛が、彼を再訪していた。家庭用の常備薬である以上、あの風邪薬に即効性はない。流石に、服薬した直後には鎮痛効果はもたらされないようだった。 |