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太陽が地平線の向こうに沈みゆく頃には、波留は逗留先の家屋へと戻っていた。 それを出迎えた秘書が夕食の準備が出来ている旨を波留に告げる。そして彼はその予定を引き伸ばす理由もなく、そのまま夕食も独りで食する事態となっていた。だが、これは今日に限った出来事で落着しそうにない情勢である。 この村において彼の面倒を看ているホスト役の人物は、日が昇らないうちから農業指導を行い、夕暮れを迎えてもその他の作業を抱えている。そしてそれが彼の日常らしい。それ故に、彼には客人の相手にかまけている暇はないと、この1日の動きを見ていれば誰にでも充分なまでに理解出来るだろう。 彼にとって、昨晩はあくまでも特別な夜だった。それが過ぎ去った今、彼は客人たる波留に求められない限り、それ以上の会食の機会をもたらすつもりはないらしい。 そもそも、ジェニー・円は全身義体なのだ。生身の波留と同じ食事では栄養補給がままならない以上、同じ食卓を囲む必然性は薄い。 波留としても、円の仕事の邪魔をする気は全くない。多忙を極めている円に対し、波留は無為に過ごしている。確かに当の円から「子供達への講義」との仕事は与えられたが、子供の保護者たる親世代からの反応が芳しくない以上、講義はこの1回きりで終了する可能性が高いだろう。 以上のように、ホストと客人と、それぞれに会食を回避するだけの理由は揃っている。しかしそれらは全て、消極的な理由だった。一旦「会食の機会が欲しい」とどちらかが言い出せば、セッティングが可能であるはずだった。だが、どちらもそれをやらない。 だからと言って、相手が気に入らない訳ではない。少なくとも波留の側からはそのような感情は持っていない。只、距離の取り方と縮め方を見計らう時点であるような気はしていた――もっとも、真に親交を深めたいのならば、そのような遠慮など吹き飛ばして会おうとするものだろうとも、彼は判っている。 同じ小村の同じ屋敷にて寝泊りしていれば、日数を重ねて行けば会話も増えるのだろうか。波留はそうも思うが、それは願望が入り過ぎているきらいもあると理解していた。 そもそも彼は、円にあの事件の独自調査についての意見を求め、ある要件を満たしている人物に対する情報公開を望んでいる。それがこの長旅の理由である。それが得られたならば、彼は次のステップへと進み、この村を後にするはずだった。所詮はそれまでの付き合いであり、気象分子を巡る事件後に分かたれた道は最早クロスし得ないだろう――。 そんな思考を、波留は外部へ漏らす事はない。口に出さないのは勿論、表情にも出さないように心掛けていた。独りで居る事が多いこの村での滞在だが、揉め事のきっかけを作らないようにするに越した事はない。 「――波留様。お顔の色が優れませんが、如何なさいましたか?」 食事を終えた波留の元を訪れた秘書は、彼の前の食器を片付けながら、そう尋ねて来ていた。彼女は器用に何枚もの食器を重ね合わせて持ち上げつつも、軽く前傾して波留に視線を落としていた。そこで、顔色の変化に気付いたらしい。 「あー…」 問われた波留は苦笑を浮かべた。注がれる視線から逃れるように、僅かに俯く。右手を上げ、人差し指を眉間に当てた。そこに刻まれている皺を、指の腹に感じる。 彼には、その自覚がない訳ではなかった。そもそも昨日から頭痛を抱えているし、それは昨日のうちから既にこの秘書へと申告済みだった。 まともな寝床で一晩休んでも、その痛みは治まっていない。だから風邪なのかと判断し、朝からこの秘書に常備薬の風邪薬を分けて貰い、内服し続けていた。 しかし、その効果は芳しくない。元々酷い頭痛ではないし痛みが間断なく続く訳でもないのだが、それ故か痛みはなかなか散ってくれない。気が付いた頃に、脳に痛みが差し込んでくる。そしてそのまま1日が過ぎ去ろうとしていると、更に症状が進んできていた。 「頭痛もそうですが、若干身体がだるくなってきてまして…」 苦笑と共に、波留は新たな情報を自己申告した。その言葉の通り、彼が抱える不調は頭痛ばかりではなくなっていた。講義を終えた頃から、四肢に倦怠感を覚え始めていたのだ。 しかし、それは彼にとっては特別な症状ではない。少々身体に負荷を掛け、その後の体調管理を怠った頃に、ふと表れてくるような有り触れた現象だった。 「やはり風邪でしょうか」 つまるところ、導き出されるのはその有り触れた病名である。頭痛以外の症状が表れてきた事で、朝のうちから下していたその診断に間違いはないように思われる。彼にはそう判断するだけの材料が揃い始めていた。 「それはいけませんね」 波留の自己診断に、秘書の表情には厳しさが増す。そもそも滅多に笑わない女性ではあったが、その印象が更に強まっていた。 彼女が浮かべている真剣な表情からは、眼前の客人を心底から心配している様子は伝わってくる。しかしその態度は、単純に人間として病人を心配しているとも限らない。秘書たるプライドに賭け、客人の体調不良を座視出来ないのもあるだろう。そして秘書の不始末は、一般論としてはその主人へと責任が転嫁されてしまうものである。ならば、ますますその事態は避けたくなるものだろう。 波留は彼女の心理をそのように読み解いていた。そしてその心理を肯定していた。自分の仕事に誇りを持ち、その誇りに似合うだけの仕事を成そうとする。それが仕事の原点であり、健全な思考だと思うからである。 「今朝お約束致しました通り、毛布の追加は準備しておりますが、他に何か御要望はございますか?」 「いえ特に…風邪ならば休息が一番です。今晩から最低でも明日1日は、ゆっくり眠っていようかなと思います」 「それが宜しいかと存じます。明日、食事と薬を、適当な時間にお部屋へとお運び致しましょう」 秘書は自らに課した役割に則り、客人にそう申し入れる。そしてその客人はそれを鷹揚に受け容れ、遠慮せずに要望を出していた。彼の要望は病人として最低限のものであり、秘書からの干渉もまた最低限だった。下手な遠慮はないが、互いの領域を侵さない。その必要がないからである。 ――朝から確実に飲んでいる薬が効いてこないのは、その後素直に寝床で休んでいないからだろう。波留は自らの現状について、そう結論付けていた。 風邪の主な要因は疲労である。それが解消されなければ、いくら薬を投与しようがなかなか治らないものだった。風邪とは単純な病故に、人類とは長い付き合いなのだ。 幸か不幸か、明日以降の波留の予定は全くの空白である。子供達への講義も今日限りだろうからだ。彼に、休息を摂る時間はいくらでも与えられている。 何もする事がないのだから与えられた部屋で大人しく寝ているべきだろう。その客人は、明日以降の予定を内心にてそう決定していた。 |