以上のように、目の前に広がる現象を「雨」と認識するのに、波留はいささか時間を要していた。
 それは、この地は雨など降らない不毛の大地だと言う認識が前提として横たわっていたからである。しかし、現実に大粒の雨が彼の頬を叩いている。外のあちこちで掲げられている灯りが大気に光の帯を作り出し、雨筋を中空に判り易く映し出していた。
 波留同様に雨に気付いた人々が、各々の家から懐中電灯などを持ち出して出て来ている。そんな彼らを叩く雨はますます強くなる。地表に落ちた雨は乾いた大地を色濃く濡らし、早々に飽和させ水溜まりを穿ち始めていた。
 人々が波留には良く判っていない言語で何事か叫び合う声と、雨粒が窓や壁や地面などの各所に当たり立てられる様々な音が、波留の耳に捉えられ続けている。それが、以前は耳鳴りめいて聴こえていたのだろう。正体を知った今となっては、普通にそれぞれの「音」として認識出来ていた。
 こうして「雨」を認識した波留だったが、次の行動にはすぐには至らない。暫くは窓際で雨粒を浴びるばかりだった。
 思いもかけない雨が彼にもたらしたのは、視覚と聴覚ばかりではない。開け放たれた窓からは雨に濡れた土の匂いが仄かに風に導かれて来ている。それもまた、彼にとっては懐かしくもこの地ではあり得ないはずの感覚だった。
 そのように茫然自失としていた彼が我に帰ったのは、髪とシャツをすっかり濡らしてしまった頃だった。11月の雨は相当に冷たく、そこまで濡れて来ると流石に寒気がしてきたのが主因である。
その頃には彼が腰掛けているベッドも結構に水分を含んできており、シーツを掌でなぞった感触に顔を顰めざるを得なかった。
 ともかく、波留はその原因を元から断つ。とりあえずは窓を閉め、これ以上の雨の侵入を防ぐ事とした。
 それから彼は自らの鞄を漁り、手持ちのタオルを取り出す。シャツを脱ぎ捨てて上体を晒し、そのタオルで濡れた身体を拭っていった。その間にも髪の先端からは水滴が落ち、床を穿ってゆく。その髪をタオルで挟み込んで拭き上げ終わる頃には、タオルはかなりの湿気を含んでいた。
 期せずして髪を洗ったような格好になっているが、洗髪料を用いていなければそもそも単なる雨水を浴びただけである。乾いた頃には相当生臭い状態になっていそうな気も、彼にはした。
 鞄から新しいシャツを取り出して纏い、その上から青いコートを羽織る。そして髪は結ばないままで背中に流し、波留は自らの部屋を後にした。





 波留はこの旅路にレインコートまでは持って来てはいなかった。彼は旅立つ前の丸1日の間にこの地域のある程度の環境はメタルで調査していた。すると、この地域の降雨量が極端に乏しい現実が一般ニュースにも天候データにも示されていた。だから雨具は必要がないと思い、荷物から減らしたのである。
 必要最小限の荷物を選別しておくのは旅の心得であり、レインコートがそこに含めなかった決断については、波留は間違ったとは思っていない。しかし、ここまでの大雨に遭遇するとなると、持ってきた方が良かったかもしれないと少しは後悔していた。降雨の可能性が万が一以下の確率であったにせよ、現実に起こってしまった以上はそんな事を思ってしまう。
 波留が出てきた廊下は薄暗いままで、叩きつけるように降り注ぐ雨が音を立てて壁際の窓を揺らしている。風の勢いは強いが、嵐と評するには少々頼りないレベルである。窓越しに感じる限りでは少し激しい大雨と表現するのが相応しい降雨状況であるように思われた。
 波留はそのまま玄関先へと足を踏み出す。ここまで旅路を共にしてきたスニーカーは、長時間の徒歩から足を守るような疲れを軽減するトレッキング用のものを選んできた。大陸を徒歩で踏破する予定はないしそれも実行する羽目にも陥ってはいなかったが、長旅なのだからまず足周りに気を遣うのは当然の選択だった。
 しかし、そんな彼も防水タイプのスニーカーを選択してはいない。無論、多少の水を弾く程度の撥水加工は、トレッキング用のシューズには標準装備である。しかしそれ以上の防御はない。このような雨天に飛び出しては足を濡らしてしまうかもしれない。しかし彼が用意したシューズはこの一種のみなのだから、選択肢はない。
 廊下に位置するいくつもの窓の向こうではまるで明滅するように光がいくつも動いている。漏れ聴こえて来る四川語での会話は波留には理解出来ないのだが、状況を鑑みるに人々が灯りを持ち出して右往左往しているのだろう。
 波留は射し込む淡い光を頬に受けながら、静かに廊下を進む。しかしこの屋内には人の気配が感じられない。客人の礼儀として、彼は廊下に面したあちこちの扉を覗いてみたり誰何してみたりはしていない。それでも、感じられる気配と言うものは存在するはずである。
 だと言うのに生活音と言うものが扉越しにも波留の側に一切伝わってきていなかった。雨風の音に紛れるにせよ、それらの自然音はそこまで酷くはないのだ。
 ――こうして、望外の恵みの雨が降り出したのだ。その対応を村人達に指示するためにおふたりとも外出されたか。波留はそう結論付けていた。ここは雨に乏しい地域なのだから、その雨への対策も不充分であるはずなのだから。
 様々な事を考えつつ、波留は古ぼけた玄関の前に立つ。その際に、再び微かな痛みが頭に走る。驚愕と呆然を前にしてはその痛みすら引いていたのだが、それらを受け容れて平静を取り戻した今となっては痛みがその存在を主張してきていた。
 しかし、今度は激痛ではない。彼は顔を顰めるのみで、右手はノブに伸ばした。掴んだノブからは微かな振動が伝わってくる。外の雨風が充分に扉を叩き続けているらしい。
 彼は黙ったまま、そのノブを回す。やはりと言うべきか、施錠はされていなかった。緊急事態だから施錠を忘れて出て行ったのか、それともそもそも小村なのだから日常的に施錠の必要自体がないのか。この村に滞在して今まで無断で外出した事がない波留には、どちらか判らなかった。
 回したノブをそのままに、扉を押す。すると向こう側から空気の壁が押し付けてきた。開いた隙間から風を切る音が聴こえ、水滴を伴って半乾きだった波留の髪を揺らした。
 彼の足元に雨が降り込んでくる。トレッキング用スニーカーに雨粒が当たり、ぱらぱらと弾けていた。そして玄関の床のタイル地にその水が広がってゆく。
 タイル地には元々濡れている箇所もあり暗がりにも靴跡が見え隠れしているが、これ以上濡らさないに越した事はない。波留は扉を開けて自らを表へと導き、すぐに後ろ手でその扉を閉めた。
 玄関先には雨露を凌げるはずの軒先が備わってはいるのだが、風があるためにあまり効力はない。雨の射線はある程度傾き、波留に降り注いでくる。顔に当たる雨に、彼は目を細めた。濡れる顔を右手で拭う。
 雨を前にしてコートの前を改めて合わせるが、これは単なる防寒用であり防水機能はない。見る見るうちに雨粒が青いコートの生地に染み込み、色濃くして行った。
 波留は前を見据える。玄関先の大地は雨で既に飽和状態にあり、染み込み切れない水分が表層に流れ出していた。あちこちに大小の水溜まりが形成されていて、その雨により川の如き筋も発生している。水害には至っていないようだが、放っておけば床下浸水程度の被害はもたらしそうな雰囲気を波留は素人なりに嗅ぎ取っていた。
 門の向こうでは灯りが揺れている。遠くから見ると、雨が水煙となって光がぼやけ、風の音と共に幻想的な印象を与えてくる。しかしこれは紛れもない現実だった。
 それを眺めている波留の視界には雨粒と髪が垂れてくる。一旦水気を拭き取った髪も再び雨に濡れ、水を垂らす道筋と成り果てていた。鬱陶しげに彼は顔を横に振る。濡れた前髪を掻き上げた。
 顔を巡らせた時、ふと彼の視界には建物の裏手が入った。そこには、庭にそびえる古木が夜闇に溶け込んでいた。灰色の幹に雨は打ち付け、捻くれた枝を風が揺らしている。しかし突然の天候の襲来にも動じず、樹木はそこに在った。
 そしてその向こうに灯りが見える。波留は軽く頭を下げて雨を避けようとしつつ、小走りに裏手へと回って行った。

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