「――…今度は、僕から質問してもいいでしょうか?」
 黙り込んでいた波留が、不意にそんな事を言い出した。その態度に、子供達は首を傾げる。しかし、口々に軽い声を上げ、波留を促していた。程度の差はあれど、子供達は波留に好意を抱きつつあるようだった。
 そんな彼らに、波留は微笑む。口許に右手を当て、問い掛けた。
「皆さんは、ジェニー・円さんから、何か教わっているのですか?」
 波留からの問いに、子供達は顔を見合わせる。青年の北京語は単語を明確に区切って発音したため、非常に聞き取り易い代物だった。その北京語の問いを四川語に翻訳して伝える親切な者も居るし、それを待たずに波留に答え始める子供も居た。
「北京語教えてくれたの、先生だよ」
「…先生」
 最初に切り出した子供の声は明るく、表情は笑顔である。波留はその言葉を口の中で繰り返した。独り言のような小さな声量だった。
 波留の反応を、子供達は気に留めない。口々に自らの意見を述べてゆく。トレイを膝の上に抱えて前のめりになっている子や、元気に挙手して発言してゆく子が居た。その誰もが自発的に発言していた。
「他にも色んな本を持って来てくれてるから、読ませて貰ってる。凄く面白い」
「農業や北京語だけじゃなくて、たまには他の事も教えてくれるよ。化学とか、計算とか」
「畑があるからなかなか暇ないけど、それでもやってて楽しいし」
「たまーに、あの女の人が教えてくれる事もある」
 北京語を解する事が出来る子供達が発言したのは、そのような内容だった。それ以外の子も四川語で何事か喋っていた。四川語を理解しない波留には伝わらないとは判っているのだろうが、どうにか意見を通したかったのだろう。
 ともかく波留は無言だった。口許に手を当てたまま、黙って子供達の話に耳を傾けていた。眼前の子供達の顔を見ていると、彼はその瞳が含む熱に気付く。北京語を話していない子供であっても、そこに表れる感情を読み取れば、ジェニー・円に対して明らかに好意的である事は明白だった。
「――先生達に薬貰った子も居る。熱出しても薬飲んだらすぐに下がるから、凄い」
 ある子供がそんな事を言うと、周りの子供達も同意するように頷いた。素直に感動と喜びを表している。
 おそらくは円は一般的な常備薬を与えたのだろう。先程、波留が秘書に貰ったような風邪薬のような、有り触れた市販薬だったに違いない。波留はそう理解した。しかしこの村には、円達が逗留する以前にはそのレベルの薬品すらストックされていなかったのだ。だから、その程度の援助であっても有難い状況なのだろう。
「でも、病気してからじゃなくて、ちゃんと前もってやっておけって…えーと、何て言うのかな」
 子供の独りが言い掛けたまま、視線を天井に向け、口篭る。どうやら脳内から該当する北京語を探査しているらしい。日常的に用いていない言語である以上、脳内で翻訳しながら喋るのは仕方のない話だった。
 波留はその子をちらりと見やる。言葉が途切れたその子に意識を向けた。口許から手を外す。
 すると、その子は発言を再開した。両手を振り、どうにか意思の疎通を図りたいような素振りと共に、言葉を発する。
「とにかく、僕らに注射打ってくれた」
「――予防接種?」
「…あ、多分、そう言うのかな」
 波留が発したその単語に、元の発言者たる子供が頷いた。青年は子供の発言内容から推測してその言葉を導き出し、実際にそれは的中したらしい。
 その子も納得したような表情を見せていた。おそらくは波留の指摘に拠り、自分の中にあった単語の記憶に行き当たったのだろう。
「村の皆にその予防接種ってのをやってね。病気は怖いし、実際に昔はそれで死んだ人も居るって、うちの親も言うし。だからそれに罹らなくなるならって、皆喜んでた」
「実際に先生達が来てから、誰も酷い病気にはなってない」
「病気だけじゃなくて怪我した時、近くの都市まで車で運んでくれたりもしてる」
 ――そんな風に子供達が競うように波留に向かって発言を繰り返していたが、この時点で講堂の後方に位置する観音開きの扉がゆっくりと開かれていた。そこには先程子供達を誘導してきた秘書が立っており、無表情に昼食時間の終了を告げる。
 そしてそれは、波留の講義の終了も意味していた。波留はそれを理解し、穏やかな表情を浮かべて秘書に向かって頷く。
 子供達の中にもその流れを理解した者も居た。秘書と波留は明確にそれを述べた訳ではないのだが、子供とは言え洞察力に優れている人間は存在するものである。
 そして子供故に、見せる反応は顕著だった。残念そうな表情を浮かべ、落胆の声を上げていた。どうしてその子がそんな事をするのか、それを理解出来ていない周辺の子供は彼に質問し、彼はそれに答える。すると、その落胆の反応が周辺へと連鎖して行った。
 それらを目の当たりにした壇上の波留は、苦笑を浮かべていた。自分との会話を残念がってくれているのか、それとも発言の機会を逸して悔しがっているのか。どちらにせよ、この講義の終了を望んではいない子供が多いようだ。それは、講義を行った人間としては喜ぶべきなのだろう。
 しかし、あらかじめ彼に与えられた時間は明確に区切られていた。だからここで終了せざるを得ない。そして子供達の親達は、どうも「異邦人」たる波留を忌避している雰囲気である。子供達と今後接触を持てるかは、判らない。だから彼は曖昧な苦笑を浮かべる他なかった。
 おそらくは村人達にとっては、ジェニー・円やその秘書も、当初は得体の知れない異邦人扱いだったのだろう。その態度を軟化させたのは、適度な医療技術の援助だろう。農業指導が実を結ぶには一定の時間を要するが、怪我や病気に対する対処療法ならば即効性があるのだから。
 彼らが来訪する以前には助からなかった人間を全快させていたとすれば、それは充分な懐柔策になる。布教に当たって優れた医療技術の持込は、古今東西を問わず有効な施策だった。
 何にせよ、現状の彼らは尊敬を村人から集めている。だからこそ農業指導に従ってくれているのだろう。そしてその態度は子供達に顕著に現れている。子供達は円の事を「先生」と呼んでいるのだから。
 言葉では子供達を宥めつつ、波留は微笑んでいる。その合間に、常備薬で治まっていたと思っていた頭痛が微かに生脳に響いた。
「――ハルも、先生に料理作って貰ったの?」
「…え?」
 講義がお開きとなったその去り際に、波留は名残惜しそうなひとりの子供に、そのような問い掛けを言い残されてもいた。
 それは、むしろ訊かれた波留の方がとてつもなく気になる質問だった。その子が一体何を言わんとしているのか、青年は一瞬理解しかねた。戸惑いに満ちた短い声が口から漏れる。
 しかし、問うた子供はその質問を投げ掛けたのみで、出入り口の秘書に誘導されて講堂の外へと導かれてしまっていた。波留はその子の姿を扉の隙間に認め、思わず呼び掛けようと右手を上げる。
 ふと波留は、自らの視界の中に、その秘書の存在を今更ながらに認識した。勿論今まで見えていない訳ではなかったのだが、改めて彼女に視点を合わせた格好になる。
 冷たい美貌の秘書は俯き加減に子供達を見送っている。標準的な成人女性の身長を持つ彼女にとって、子供達の視点はかなり低い。そんな子供達と同じ視点で風景を見ようとするかのように、子供達が出て行った講堂の外を見やっていた。
 そんな彼女が、やはり微笑んでいる。遠目から見ている青年には、そんな気がした。波留は先程、講堂に子供達を導いてきたその時に感じた印象を、またそこに感じ取っていた。
 講堂の前方に存在する教壇に立ったままの波留と、後方出入り口に立つ秘書とではそこそこの距離が確保されている。更には彼女は俯いていて顔には影が落ちていて、細かな表情は確認出来ない。しかし、波留はその彼女の元から穏やかな雰囲気の伝播を、肌に覚えていた。

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