その古い建物は、現在「講堂」を称している。しかし、たまたま間取りが「村人全員を集める規模の広さ」を確保しているだけであり、建設の目的は何だったのかは判然としなかった。
 高い天井と平坦な床に並ぶ横椅子、前方に広いスペースが存在する状況から、もしかしたら宗教施設の一種だったのかもしれないと想像の翼をはためかせる事は可能である。しかし、信仰されていたかもしれない「何か」の存在を表すものは、一切残されていなかった。実際に現在の村人の様子を見るに、宗教色の欠片も垣間見えない。ここまでの窮状に陥った村でも「神」と言う存在に縋る事がなかったようなので、その無宗教文化は数十年単位で培われていると推測された。
 講堂に立ち入った波留が真っ先に感じた印象は、それである。彼は前方に存在する広いスペースに据えられた教壇の前に立った。その上に、持ち込んだ携帯端末を置く。起動はしているが、省電力モードに入っているためにモニタとしての動作を一時中断している。そのために端末はまるで一枚の青い金属版のような印象を醸し出していた。
 ――ともすれば、自分はこの地域に何の基盤も持たない宣教師か。新たな教えを持ち込み布教しようとするが、住民達からは胡散臭い扱いを受けていたであろう、歴史上の人物達か――波留は目下の青い金属板を眺めつつ、そんな事を思ってしまっていた。
 しかし波留とその宣教師達と、確実に隔てていたのは、これから語るであろう話に対する強固な信念である。宣教師達は迫害に生命の危険を晒してでも、自らを貫いた。しかし波留が語るのは、あくまでも人工島の生活における世間話である。気楽なものだった。
 ――宣教師ならば、むしろあの黒いコートからして――と、波留が脳裏に該当する人物の姿を思い浮かべた時だった。
 出入り口となっている後方に位置する大きな観音開きの扉が開いた。大きな音が響き渡り、それから子供達の賑やかな声と足音が幾人も続いていた。
 波留が顔を上げると、その扉を女性秘書が押さえていた。子供達が通り易いように通路を確保している。
 その傍らを通り過ぎてゆく子供達は両手にトレイを持ち、その上には昼食らしき丼がひとつ鎮座している。食事を目の前にしているからか、皆一様に笑顔を浮かべていた。そして波留は、そんな子供達を眺めているあの秘書が僅かながら微笑んでいるような気がした。遠目からなので判り辛いのだが、纏っている雰囲気からそう感じたのだった。
 もし目の錯覚でないのならば、冷静な彼女であってもやはり子供に対しては愛情を注ぐのだろうか。その言動を微笑ましく思うのだろうか――そう思い、波留自身も笑顔を浮かべてしまう。
 ともかく、子供達は前列から席を埋めてゆく。そう言う指示が事前に出ていたのか、それとも彼らの自由意志なのか。波留には判らない。願わくば、後者であって欲しかった――彼らが笑顔なのは食事の存在だけではなく、波留の話に興味があるからなのだと思いたかった。
「――食事しながらで結構です。そのまま聴いていて下さい。僕もゆっくり話します」
 子供達が全員席に着いた頃を見計らい、波留はそう口を開いた。言ったそのままに口の動きも大きく明確である。右手を胸に当て、軽く頭を下げる。顔の横に垂らしている伸ばされた髪が、そのまま頬に触れた。
「これからは、以前実地で学んだ北京語で話しますが、普段使っていなかったものですから、あまり得意ではありません。お聞き苦しいかもしれませんが、僕は四川語を学んでいませんので御容赦下さい」
 ここまでの現在において彼が用いているのは、その四川語である。しかしそれはこの数時間のうちに翻訳して発音を練習していた文章をそのまま発しているに過ぎない。携帯端末にインストールしていた辞書機能を活用しての文章作成の成果だった。
 だが、彼に出来たのはそこまでだった。講義すべき内容全てを翻訳し練習する暇は流石に確保出来なかった。ならば、どうにか会話は出来る北京語で押し通す事に決めたのだ。
 北京語は中国大陸ではメジャーな言語ではある。その一方で、この地方で用いられてはいない言語なのだから、この村の子供達に通じるかどうか不安は存在した。しかし酒の席で円は「暇があれば子供達に教えている」と言っていたのだ。波留はそれを信じたかったし、信じる他に意志の疎通の道はなかった。
 波留は壇上に置いていたペーパーインターフェイスの表面に指を走らせた。そうする事で待機状態が解除され、モニタが起動した。彼はその画面を一瞥し、軽く唇を湿らせた。
 彼の耳には食器と箸がぶつかる微かな音がいくつも聞こえてくる。食事を摂っている子供の様子が伝わってきていた。果たして、食欲を満たしつつも知識欲を刺激されてくれる子供がどれだけ出てきてくれるだろうか?
 それは、やってみなければ判らないだろう。この「依頼」を請けると決めた昨晩も、そう思ったはずだ。
 確かに軽い気持ちで講義すればいいのだろうが、やるからには子供達の未来の助けになって欲しいと、彼は思う。
「――僕は、波留真理。出身は日本で、人工島と呼ばれる地域からやってきました――」
 顔を上げ、柔和な表情を浮かべて、黒髪の青年は語り始めていた。

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