窓際に配置されているベッドに腰掛ける波留の聴覚が人間の声を捉え始めた頃には、ペーパーインターフェイスが刻む時間は午前11時を回っていた。当初届いてきたのは女性の声であり、徐々にその人数は増えてゆく。
 その声に興味を惹かれ、波留は視線を窓辺へとやる。すると庭の大樹と家屋を覆う壁の隙間から、メインストリートを歩く女性の姿を盗み見る事が出来た。彼女らは農作業に適しているとおぼしき衣服を纏い、実際にその服は新しい土汚れが付着している。どうやら農作業を切り上げ、食事の準備のために村に戻ってきたようだった。
 文化的に発展していない寒村ならば、どうしても男女の性差で役割が分担されがちである。男女平等が叫ばれて久しい昨今ではあるが、男女間に体力の差は多少なりとも存在するのだから。そしてその利を得ていない人間を敢えて力仕事に回せるだけの余裕は、この村にはない。それでこの村が上手く回っている以上、外部の人間がとやかく言う事ではないだろうと波留は思う。その手の啓蒙活動は、生活に余裕が出てきたならば自然発生するだろう。
 ともかく、昼食を用意する人々が戻ってきたのだから、それが村人に振る舞われる時間も近いとの判断が成り立つ。ならば波留が講義を行う相手たる子供達も、そこに含まれているだろう。
 さて、自分の仕事の時間は何時になるのだろう――そう思いつつ、波留がペーパーインターフェイスに映し出されているデジタル時計に視線を落とした時だった。
 唐突に扉がノックされる音が数度、彼の部屋に響き渡った。次いで、女性の声が彼を呼ぶ。波留はノックの音には一瞬驚いたが、次の瞬間にこれがはどういう事情に拠るものかをすぐに把握していた。彼はこの村を来訪して以来、同じ事態に何度も見舞われているのだから。
 波留はベッドに腰掛けたまま、扉の方に身体を向ける。彼が扉越しに促すと、静かに扉が開き、ショートカットの女性の頭が下げられていた。その姿を、波留は本当に何度となく目撃している。
「――波留様。子供達が耕作地から戻って参ります。出来ましたら、彼らの昼食時間を講義に充てて頂けたなら、幸いです」
 扉の間に立つ見慣れた秘書が、訊き慣れた口調で波留にそう告げてきた。それは、彼が推測していたひとつの可能性だった。それを自らの口で述べつつ、秘書に確認を取る。
「――子供達には、食事をしながら僕の話を訊いて貰う事になるのですか?」
「はい。彼らの親が昼食以降の時間の確保に難色を示しましたので…そうなりますと、ミスター円も強要は出来ません」
 波留に対してそう返答した後に、秘書は深々と頭を下げた。明らかに謝罪の意を表した一礼である。
 秘書の弁からは、波留が想定した状況よりもあまり良くない印象が感じられた。つまりは子供達の親世代達は、将来への夢物語よりも現実の生活を優先させたいのである。
 その思想が、親達の態度に明確に現れている。昼食を摂る間は子供達の自由時間として、与えてやってもいい。しかしそれ以降は、午前中同様に耕作地にて農作業を手伝わせる――そう言う方針なのだ。現実が厳しい以上、それもまた当然の判断ではあった。
 こうなると、日常的な講義を行う事は可能なのだろうか。昨晩の円の口振りでは子供達に教育を与えたい様子だったが、その時間を確保するのは困難を極めるのではないだろうか――普段から教育を与えているのならば、今回の波留の特別講義に対してもある程度は緩和した態度を取るだろうから。
 ジェニー・円と言う人物は己の理想を実現しようと邁進する人間である。波留は人工島での一連の事件にてそう言う印象を抱き、今回の来訪にてそれは補強された。しかしその理想を追うには、なかなか現実は厳しいようだと波留は感じる。特に、自分だけの問題ではなく、相手あっての「理想」となると、大変な事なのだろう――。
「そのため、波留様には長時間を割いてお話し頂く事は、御遠慮して頂きたいのです。折角、御準備頂いておりますのに、申し訳ございません」
 秘書の口から明確に謝罪の言葉が露わになった。それに伴い、下げられる頭の位置が更に下がってゆく。膝の前に両手を添え、大きな角度をつけて腰からお辞儀をして、その位置で制止する。
「いえ…僕は気にしていませんよ」
 波留は苦笑を浮かべ、右手を顔の前で横に振ってみせた。鷹揚な態度を取ってみせた。
 元はと言えば、これは円から求められた依頼なのである。それも昨晩の酒の席で出された程度の話であり、彼にとってはそこまでの重みは感じていなかった。むしろ、依頼した円の方に忸怩たる想いがあるのではないだろうかとさえ心配していた。
「まあ…時間もないようですし、掻い摘んでお話する事にしましょうか」
 そう言いつつ、波留はベッドから腰を浮かせた。ペーパーインターフェイスを右手で掴んだまま、立ち上がる。
 子供達が講堂にて昼食を摂るために移動を開始しているのならば、先回りしておくべきだと思ったのだ。何せ、秘書が述べたように波留に与えられた時間は限られている。ならば、子供達を待たせる時間が惜しかった。
 やるからには、確実を期したい。悪条件の中でも、ベストを尽くさなければならない――それが波留の信条のひとつである。それは自然たる海を相手に観測実験なりダイビング競技なりを行い培われた、彼の中に生きる信念だった。
 動き始めた波留の態度に、秘書はゆっくりと頭を上げた。瞼を伏せたままの顔が明らかになる。謝罪の時間が解除された――そのような印象を与えるような動作ではあった。しかし礼儀に則った完璧なものである。
「お願い致します」
 彼女はその言葉を発し、軽く頭を下げた。そして、身体ごと横を向く。右手で扉を指し示しつつ、講堂へと案内する旨を波留に告げた。
 ――講義の後に昼食を召し上がって頂けるよう準備致しておりますと最後に付け加える事を、彼女は忘れなかった。
 波留はその言葉に、口を軽く開いていた。若干、呆気に取られたような表情が顔に現れる。しかし、すぐにそれは微笑みに取って変わった。――楽しみにしています。彼はそう答えている。
 それは台詞自体は社交辞令と解釈出来た。しかし、波留にとってはそればかりではなかった。素朴な食事は満足しているし、何よりもそれを誰が調理しているのか。自分に出す料理に対して何を思っているのか――それを想像するのが楽しい事実に、気付いていた。

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