波留の耳は、空気を震わせるラジエーターの音を捉えている。その暖房器具自体もその身を微かに振動させ、室内の静寂を乱していた。
 2枚の毛布に覆われた彼の身体は充分に保温出来ている。しかし、その庇護を受ける事が出来ない顔には、若干冷たい空気が感じられていた。更に奥地に進めば世界有数の山岳地帯へと至るような寒冷地の11月である。地域特有の、古めかしくも一定の防寒装備を得ている建築物とは言え、寒気を完全に防備は出来ないらしい。
 室内なのだから、凍えてしまう程の寒さではない。それでも波留は、剥き出しの顔から伝わるこの室温に、不意にぶるりと来た。普段は常夏の島で暮らしているのだから、身体がその落差に反応しているのだろう。
 それに伴ってか、頭の奥に鈍い痛みが走る。
 思わず彼は、自分をくるんでいる毛布を掴み、更に強く自らへと押し付けた。毛羽立った表面を掌に感じる。その指先が妙に冷たいと、不意に自覚した。
 そうやって身体を縮こまらせると、顔も毛布に埋める状況となる。すると、毛布から跳ね返ってくる自らの息がかなり酒臭い事にも気付いた。
 そう言えば――と、昨晩は結構な深酒に至っている事に思い至る。勧められるままに酒を何本開けただろうか?元々結構酒に強い人間である自覚はあるのだが、それにしても最近はあまり飲んでいなかったのだ。あれだけ飲んだのは、それこそ50年振りに違いないと思う。
 毛布にくるまったまま、彼はベッドの上で上体を起こした。起き上がった彼は、呼気が僅かに白く煙っているのを目視する。どうやら彼が感じている寒気は主観的なものではなく、客観的にも証明されているようだった。
 頬や首筋にも、伸び切った長髪が絡んでくる。寝ていた事であちこちに癖がついているが、窓の隙間から細く差し込む陽光が当たった辺りでは黒髪も淡く照らし出されている。
 彼は額から頭部にかけて、右手を差し込む。軽く顔を横に振りつつ、伸びたままの前髪を大きく掻き上げた。頭皮に感じる指先の温度は、やはり冷たい。
 ――まるで、ダイブした直後のようだ。
 彼はふとそんな感想が、脳内に浮かび上がっていた。
 リアルの海へとダイビングした場合、身体の末梢部からは徐々に血流が引いてゆくものだった。
 深く潜るに従い加算されてゆく水圧が毛細血管への血流を阻むのが第1の理由である。或いは、水中では肺呼吸出来ない以上、体内からは酸素が徐々に失われてゆく。そうなると、限られた酸素は人間の最重要器官たる脳へと重点的に配分されるのだ。人間が取得した酸素の2割は、体重の2%の質量に過ぎない脳で消費される。その不文律は、呼吸不可能な環境に至っても打ち破る事は出来ない。
 波留の冷たい指先が肌に触れる。彼はその感覚に目を覚まされるような気もするが、何処か頭の隅はぼんやりとしている。実際に鈍い痛みは、彼の脳内に微かに続いていた。
 その指先も、徐々に熱を取り戻してゆく。波留の顔から本来の体温を受け容れている。そして窓からの太陽の暖かさも、その助けとなっていた。
 波留はその感覚に、瞼を伏せる。それこそダイブから帰還した直後のように、彼は自らの肉体の感触に浸っていた。
 ――そう言えば、夢を見ていたような気がする。
 しかし、その内容は不思議と思い出せない。目覚めた直後だと言うのに。
 一体何の夢だっただろう――?
 室内が暖房と共に陽光に晒され、徐々に朝の暖かさへと至ってゆく。波留は目を閉じたまま、じっと黙り込んでその温度変化を感じ取る。そうしながらも、眠りの最中に生じたはずの出来事を思い出そうとしていた。
 その時である。広くはない一室の壁に存在する唯一の扉にて、外から数度ノックされていた。次いで、女性の声で伺いを立てられる。
 波留にはその声は充分に心当たりがあった。だから彼は、その呼びかけに応じる。
 それまでには被っていた毛布は解いて膝の上を覆っていたとは言え、ベッドに腰掛けたままだった。人を迎えるに当たって、その態度は少々行儀がなっていないのかもしれない。しかし身支度も整えていないのだから、今更だと波留は思った。それに、緊張を保たなければならないような状況でもないとも思う。
 波留の心境はともかくとして、扉の前の人物は彼からの応答を受けた。すると断りの言葉を経て、扉が外から開かれる。
「――おはようございます。お目覚めでしたか、波留様」
 中国大陸の奥地であっても美しい口調の日本語を用いる女性が、そこに立っている。彼女は人工島時代のようなきっちりとしたスーツ姿でこそないが、この地域とこの小村に合わせた服装で、波留に対して恭しく頭を下げていた。
 一晩経たこの朝ではあるが、波留が抱くこの秘書への印象は全く変化していない。メタルが一切使用出来ない環境だと言うのに、客人の状況を見ずとも把握して行動出来るのである。波留にとってそれは、彼に半年程度仕えてくれた、介助用にセットアップされた公的アンドロイドを連想させた。
 人間をアンドロイドに喩えるとは、2061年現在の常識においてはあまり好ましくない発想ではある。しかし、常識人であるはずの波留にその思考実験を強いてしまう程に、彼女は完璧かつ有能な秘書だった。
 そこに唯一欠点を見出すとするならば、その美しい顔には一切の微笑みが浮かばない点だった。一般に秘書と呼ばれる職業に就くからには、対人スキルは最重要である。そして笑顔とは、対人スキルの一種だった。
 しかし、それは彼女の雇い主があまり笑わないように指示を与えているのかもしれない。多少よそよそしい雰囲気を醸し出している方が、却って役立つ事もあるのかもしれない。
 とは言え、それは感情に関わる制限である。雇い主からの指示にしても、それを受け容れて見事実行しているならば、やはり有能ながらもアンドロイドめいているとの結論に戻ってしまう。
「――朝食は召し上がられますか?」
「はい…良ければ頂きたいです」
 その秘書は、自分がそんな風に品定めされている事など全く意に介していない。自らの職務として客人にそのような提案をしてきた無表情な秘書に対し、波留は微笑みを浮かべた。彼特有の人好きのする笑顔と共に、返答し頷く。
 すると、顔が振られたせいか、頭に鈍い痛みが響いた。彼は思わず顔を歪める。反射的に右手が額へと伸ばされていた。
「――どうされました?」
 確かに彼女は有能な秘書らしい。波留の様子を見て、すぐに声を掛けてきた。しかし声の響きも表情も、台詞の内容自体とは異なり全く心配げではない。相変わらずの無感動を保っている。
 だが、波留にとってはその態度がありがたかった。自らの身体の変調をあまり大事にはして欲しくはないからである。少々気になる程度の痛みしかないのだから。
「いえ…大した事ではないとは思うのですが、少々頭痛が」
「あまり快適とは言えない旅で遠方へといらっしゃったのです。一晩お休みになった事で疲れが出て、初期の風邪の症状が表れてきているのかもしれません」
 秘書の淡々とした台詞に、波留は曖昧に笑う。彼女の推測通りかもしれない。そう言う経験は、彼の実質32年の人生には珍しくもないからだ。風邪とは普遍的な病であり、人間には有り触れた症状だった。
「この村には専属の医師は駐在しておりませんが、常備薬ならございます。宜しければ、朝食後にお出ししますが」
「…お願いします」
 波留は秘書からの勧めに素直に従う。妙に強情を張って、後々本格的に臥せってしまっては逆に迷惑を掛けてしまうからである。それこそ本当に大事にしてしまっては、波留の本意ではなかった。
 ならば、とりあえずの薬で治すなり症状を押さえ込むなりしておくべきだろう。それこそ、出張先などでやるような間に合わせの治療である。海洋調査続きの波留にとっては手馴れた措置と言えた。
 そこまで世話になるのだから、ついでではある。そう思い、彼は昨晩感じた感覚を苦笑混じりに素直に秘書へと打ち明けた。
「夜明け頃には少し寒く感じたのもあるかもしれません」
「そうですか…」
 波留からの告白に秘書は頷き、軽く首を傾げた。何かを考え込むよな仕草を見せる。しかし長考はしない。すぐに顔を上げ、申し出た。
「――でしたら、今晩は毛布を1枚追加致しましょう。準備しておきます」
 秘書が導き出した申し出に、波留は面食らったような表情を一瞬見せていた。しかしそれはすぐに解除される。微笑み、頷いていた。
「お願いします」
 寒いのだから纏うものを増やす。至極真っ当な対応ではある。体感温度が低いならば、当たり前の話だ。
 しかし、どうやら室温設定を上げるとか、そう言う対処はする気がないらしい。ここは屋内であり暖房設備もある程度は整っているのに――である。それを波留は多少は意外に感じたのだ。
 その一方で、彼には理解している事もある。限られた物資で暮らしているような寒村なのだ。少々寒気を感じようが、生命活動には全く支障がない室温である。それこそ重ね着すれば対処可能なレベルの寒さだった。それを、敢えて燃料を追加し、室温を上昇させて快適に過ごせるようにするエネルギーの消費は、正しく「浪費」なのだろう。
「――それでは、朝食が出来上がっておりますので、お早めに食堂にいらして下さい」
 納得した波留の表情に、ひとまず話は終わったと認識したらしい。秘書はそう言い残し、一礼してひとまず立ち去ろうとした。波留が部屋の外に出るのならば、身支度を必要とするだろう。その時間を与えつつも、さり気なく釘を刺した事になる。
「あ、お待ち下さい」
 そんな彼女を、波留は呼び止める。すると、秘書はすぐに足を止めた。滑らかに振り返り、波留へと向き直る。その姿勢は相変わらず美しい。そんな彼女に、波留は質問した。
「…今朝も、あなたの主は僕と同席なさりたいのですか?」
 その疑問は、昨晩の会食からのものだった。客人をもてなしたいと思っているホストならば、毎回の食事に同席したいと思ってもおかしくないのではないか?――波留はふとそう感じたのだ。
 秘書は無感動な瞳を波留へと向ける。その唇から、淡々とした言葉が返ってきた。
「いえ。ミスター円は既に耕作地で指導中です」
 農村の朝は早いのは、世界共通である。この農耕地開発は、現在の彼が掲げる大きく困難な目標だった。それに日夜努力しているのだから、プロジェクトには全く関係していない客人の機嫌取りにいつまでも付き合ってはいられない――そう言う事情らしい。波留はそう解釈した。
「何かございましたら、私からミスター円に伝えましょう。何でしたら昼食か夕食についても、会食のセッティングを致しましょうか」
「いえ、そんな。お忙しいのでしょうから」
 淡々とした口調の秘書からの申し出を、波留は慌てて断った。
 ジェニー・円と言う人物は、波留にとっては良い人間と言える。会話も明晰で、充分な信念を持つ人物である。これまでに紆余曲折あったにせよ、一貫して尊敬に値する人物だった。
 しかし、親友とまではいかない。それに至る道筋はまだまだ遠いだろうし、そう言う道筋を発見出来るような目処も立っていない。昨晩酒を酌み交わしても、微妙な距離感を保ったままである。波留真理と久島永一朗の「同じ場所に居合わせて、気付いた頃には意気投合していた」との関係は、やはり唯一無二なのだろう。
 この秘書は、波留からの質問を「この客人の方が主と同席したいと思っている」と解釈したらしい。その要望に従い、それを叶えるための方法論を提案してきた。
 しかし波留自身は、そうは思っていなかった。会話する内容が良く判らないのだ。自分が眠っていた50年間の話は訊いてみたいと言うのは真実だが、いざ考えてみるとあまりにも漠然とし過ぎていた。
「彼には、今日のうちにお約束していた講義を行うとお伝え下さい」
「了解致しました。子供達には、昼には講堂に集まって貰えるようにお願いしておきます」
 波留は秘書に今日の予定を告げ、秘書はそれに一礼した後に回答した。どうやら彼女にもその「予定」は伝わっており、そのための最低限のセッティングは成されているようだった。
 「好きな話題を話せばいい」ような取り決めだったと、波留は昨晩の会食時の記憶を辿る。しかし、波留はそれを、子供達を集める所から始める必要はないようだった。場を与えられ、聴衆も既にそこに集められている――正に「講義」形式と相成りそうな雰囲気である。
 となると、少しは真面目な話題を出すべきなのだろうか。波留はそう思い直す。
 無論「宿代代わり」との名目がある以上――そして波留の性格上、いい加減な気持ちで子供達に「外の世界の話」をするつもりはなかった。しかし正式に舞台を整えられている様子なのだから、本番前には話す内容を整理しておくべきかもしれない。彼はそう結論付けていた。
 波留が思考を巡らせている間に、秘書は彼の前から退出している。最後まで完璧な作法に則り、静かにその部屋を後にしていた。後に残されたのは、僅かに振動するラジエーターの音のみだった。
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