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潮流が身体を覆っている。 海の蠢動たる潮流の前には、独りの人間は無力である。いくら泳いで抗ったにせよ、その原則を打ち破る事など無理であり無謀な試みだった。そんな事をしては、最終的には単なる物体として、波間を漂うだけの存在になり果ててしまう。 海は絶え間なくその姿を変え、動き続ける。抱かれている生命体は、その動きに合わせる他ない。回遊する魚群も、その海の理を本能的に悟っている。 漂流の一番の恐ろしい点は、自分の位置が移動し続け、何処に連れて行かれるのか全く想定出来ない事だ。そこが他の場所での遭難と著しく違う点であり、人間達にとって致命的な違いだった。 しかし、波留はそれを恐ろしいとは思わない。 確かに安全面において、彼とそのダイブを管理する人々は充分過ぎる対処はしている。彼がダイブする近辺にはベースキャンプとなる船が停泊し、事情に拠っては彼と船とを繋ぐ命綱たるケーブルも装備していた。 危険に思った時点で彼は浮上の判断を下す。仮に彼が何らかの事情で意識を喪失したにせよ、ダイブ中の彼の状態は船側が注視している。無線連絡して返答がなかったりと波留の様子がおかしいと悟った時点で、彼らはケーブルを巻き上げて強引に波留を船上へと回収するだろう。 海中で酸素が尽きれば、人間は溺れ、早急に救助されなければ遅かれ早かれ死に至る。救助されても、窒息し酸素が欠乏した脳には障害が残る可能性が高い。それが肺呼吸生物たる人間の限界点である。 確かに波留は海中において酸素を温存し、通常の人間よりも遥かに長時間潜り続ける事が出来る。しかし、それも10分弱である。そのラインを越えれば、彼とて生命の危機を迎えるだろう。 しかし逆説的に表現するならば、それらの危険水域に達しなければ、自分は絶対に大丈夫なのだ。波留はそれを確信している。 だから彼は、自らの身体を洗い、捉え、押しては引いてゆく潮流を肌に感じて楽しんでいる。彼にとってはそれは、海がじゃれ付いて来ている感にも受け止められたのだ。 彼は、眼球保護のためにゴーグルを装着している。その目を細めて、深海へと続く潮流を眺めていた。心地良い圧迫感と共に、耳元には海が奏でる旋律めいた低音が響いてくる。 僅かに口を開くと、冷たい海水が口腔に触れた。体温を確保するためにか熱い口内を、水温が浸食してゆく。その舌先には塩味を僅かに感じた。 ――海水から酸素を取り込めたら、どんなにいいだろう。 漂う最中、彼はそんな思考に至る事もある。 魚類のように鰓呼吸出来ればもっと長く潜っていられる。この心地良い海に。 もっとも鰓呼吸を選ぶと、今度は地上で生活出来なくなる。ならば、いっそ深海の魔女にでも会いまみえて、こうやって海水を空気同様に肺で処理出来るようになれば――と、妙な夢想に至る事もあった。 無論、それは馬鹿げた話だと、彼自身判っている。変な考えを抱いて脳で酸素を浪費する余裕があるなら、それを節約して潜る方に向けるべきだ――そう方向修正するのが常だった。 そもそも潜り続けたいならば、アクアラングと言う選択肢がある。それ以外にも、呼気を循環させて半永久的に海中に潜り続けるだけの酸素を得る事が出来る機構も存在した。海に生きる生物ではない人間も、それらの発明によって海中で長時間の作業を可能にしているのだ。 波留も、業務によってはそれらの手段を用いている。フリーダイビングばかりが彼の仕事ではない。 しかし、それらの手段を用いて長時間深海に滞在しても、彼の心はそれ程躍らない。命を繋ぐ必要不可欠な機構だと言うのに、何処か邪魔に感じてしまうのだ。 海に潜るならば、装備は最小限に。身体ひとつで潜り、海と一体になりたい――。 結局は、自分が抱いている最大の欲望は、それなのだろう。 だから、僕はこの仕事を選んでいるのだ。 ダイビングは彼にとって「天職」だと、周辺の他者は高い評価を下してくる。しかし、職業として求められる技能と、自分が求める最終的な理想と、波留は僅かに食い違っている気がしていた。 指先からひんやりとした感覚が昇ってくる。 |