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「僕は構いませんが…――」 波留は了承の言葉を述べつつも、顎に片手をやった。若干考え込むような仕草を見せる。依頼内容は理解したし実行にはやぶさかではないのだが、彼にはちょっとした疑念があった。それを素直に口に出す。 「――…言葉は、どうなんでしょう」 2061年においても世界はひとつではない。近代史を経て英語が国際語としての地位を確立はしているが、地球のあまねく地域にて通じる訳ではない。ましてここは、戦乱以前からの非英語圏である。そんな国家の、公的教育が確保されていなかった寒村の子供達と、波留はどうやって意思の疎通を可能にすればいいのか? メタルに接続出来るならば、同時通訳ソフトウェアも備わっている。しかし何度も触れるように、この地域ではその手法は不可能である。この大陸に足を踏み入れた以上、波留もガイドブックや小型の辞書は携帯している。筆談を交えつつ辞書を引いて遅々とした講義を進める他ないのだろうか?――そう言った疑問が、波留の中に湧き上がっていた。 「あなたは人工島にお住まいですし、以前は人工島建設に携わっておいでだったんです。充分に英語は喋れましたよね?」 「まあ、英語ならそれなりに…」 円からの問いに、波留は顎に手を当てたまま頷いた。彼は「それなり」との表現を用いていたが、彼の英語力は専門レベルの議論や論文執筆を可能とする高度なものだった。その発音も訛りもなく、選ぶ言葉としてもとても綺麗な英語である。現在の彼は母国語たる日本語でも丁寧な言葉遣いを見せるが、英語でも大して変わっていない事になる。 波留は視線を中空に向けている。少し考えるような態度を見せていたが、ふと思いついたように頷いた。顎に当てた手を外す。円に向き直り、付け加えた。 「――後は、喋るだけですけど、広東語と北京語を少し。日本の漢字を交えて筆談したりは出来ます」 その波留の追記に、今度は円が興味を惹かれるような表情を見せた。その気持ちを表して、訊く。 「おや…何処かで学んだのですか?」 「人工島建設時に、実地で会話して」 「ああ…あの頃には作業員が大陸から流れ込んだと訊いています。そうでなくとも、あなたと仕事で関わるような技術者も居たでしょうしね」 波留からの答えに、円はそう言いつつ鷹揚に頷いていた。しかし技術者達は大陸内ではエリートに属するのだから、英語のレベルも高かっただろう。そして肉体労働に携わる作業員とは、波留のような研究職とは立場が違うのだからわざわざ話しかける用事もないだろう。なのに敢えて「実地で会話して学んでいる」のだから、彼としてはこの黒髪の青年は相当な物好きであるように思えた。 それはともかくとして、波留の弁を訊いた円には多少指摘しておきたい事が生じていた。 「北京語と普通語とは実は微妙に違うのですが、その辺りは御存知ですか?」 「…いえ。申し訳ありません」 その言葉を受けた波留は、僅かに顔を上げる。軽い反応を見せ、口を開いた。そして返答しつつ、頭を下げる。どうやら自分は相当な素人考えを抱いていたらしい――そんな思考が彼の中によぎっている。 つまりは波留は、多少は北京語を喋れるのだから、どうにか講義をやっていけそうだと判断していたのだ。彼の中ではそれは中国大陸での公用語であり、もしかしたら子供達にも通じるかもしれないと思ったのだ。 しかし、円の指摘にもある通り、波留の認識は誤りである。日本語に喩えるならば、それらは標準語と昔ながらの江戸っ子の喋り言葉とも表現出来る代物だった。親戚関係のような近似値は保っているが、同一ではない。 とは言え、他の言語間のように深い溝が刻まれている関係でもない。だから円は助け舟を出してきた。 「まあ…それらは酷く違う訳ではありません。普通語なら常々教えていますので、通じるでしょう。英語も多少は判る子が居るかもしれない」 その台詞に、またしても波留は怪訝そうな表情を見せた。それは彼にとって意外な話だったのだ。 「英語を学んでいる子が居るのですか?」 「多少は私がね。私としては農業指導の暇を見て教育している程度ですので多くは期待しないで欲しいのですが、紙媒体の書籍はこの村に各種持ち込んでいますので、興味がある子は独学しているかもしれません」 「成程…」 頷きつつ、波留は両腕を組む。そうすると呼気は熱いままである事に気付き、自分が酒を嗜んでいた事を暫く忘れていた事実に驚いた。 「まあ、子供達にはいい語学実習になるかもしれませんな」 そこに当たり障りのない言葉で、円はこの話題を締めようとしている。とりあえず波留の了承は得られたのである。ならばその話題までは干渉しない、好きな事を話せばいい――この依頼主の考えが、そこから透けて見えた。 本来ならばこの地域で用いられている言語は標準語でも北京語でもない。波留がどうにか解する広東語でもなく、彼にとっては未知の言語たる四川語だった。 そんな環境において、円は普通語と英語をたまに教えているらしい。そこで波留が普通語と互換性がない訳ではない北京語と、そこそこ使える英語とで講義を行う事になる。果たして意思の疎通は可能だろうか。 多少の不安は横たわってはいるが、波留としては心配しても何もならないだろうと結論付けた。全く通じない訳ではなさそうなのである。なら、とりあえずやってみよう――それなりの自信と根拠は持ち合わせてはいるのだが、それでも結構な割合で当てずっぽうな行動ではある。 それを、果たして何と言うのだったか?波留はふと考えた。 ――勘――だったっけ? その時彼の脳裏によぎったのは、その単語だった。 しかし、そこに想いが至った瞬間、彼は眉を寄せ、首を横に振っていた。 結ばれた後ろ髪が彼の首筋に当たる。頭蓋の中で脳が僅かに振られ、そこから痛みが微かに弾けた。 |