放たれてきたその言葉に、波留は僅かに口を開いた。自らが無意識のうちに軽く息を吸い込んでいる事に、気付いた。酒交じりの息が喉に当たる。湿った口内に微かな風が通り抜けた。
 ――物騒な。とんだ言い掛かりだ――言われてすぐに思い浮かんだのは、その手の台詞である。しかし彼は口を噤む。すぐに反論しなかった。
 それは、心に浮かんだその言葉をそのまま口にするのは、礼儀に反するからではある。そもそも礼儀に反しかねない事を言われてはいるのだが、だからと言って売り言葉に買い言葉とは品がない。彼はそんな思考が出来る人間だった。
 どう返答すれば角が立たないものか――そうやって波留は思惟に浸ろうとする。
 しかし、物騒な事を言われた事実には変わりはない。今まで敵意や反感を持たれるような会話を交わしたつもりはなかった。もしかしたらこのプラントの一件についての問答がそれに当たるのかもしれないが、そもそもこれを言い出したのも円である。
この村を訪問してからのやり取りを経て、波留自身はすっかり円に気を許したつもりでいた。しかし、出迎えたホスト側はそうではなかったのだろうか――?
 大体どうして僕がそんな事を言われなくてはならないのだろう。何処にそんな要素を感じ取ったのだろう。そもそも、こちら側に何らかの非礼があったのならば、まずそれを詫びなければならない。
 波留はそんな事を思いつつも、自然に奥歯を噛み締めている。意識を研ぎ澄ませると、頭の奥で軽く痛みが走った。断続的に表れて来ている頭痛が鮮明に感じられる。
 ――彼は、ふと思い当たった事があった。ゆっくりを瞼を開く。
 あの時、僕は何を思った?
 ――波留は今回のテロを解決する際に、ある義体技師をハッキングして自らの支配下に置いた。それは以前に久島所有の倉庫から、波留自身を模した義体を発掘しており、そのセットアップを技師に依頼するためだった。
 10月末の今回のテロの解決は、必要最小限の人員で行われる必要があった。だから不用意に対応する人間を増やせない事情があった。しかしメタルダイバーたる波留にとって、義体の技術面においては門外漢である。セットアップの変更措置などについては、専門の技師に依頼しなければならなかった。
 そこで彼が選んだのは、以前から弱味を握っていた技師だった。
 波留は人の弱味に付け込み、その人物に自らの言う事を利かせたのである。有り体に言えば、紛れもない脅迫だった。彼は7月にはテロに手を染めた挙句、10月には性懲りも無く他者を脅迫するに至っている。その全てにやむを得ない事情があるとは言え、清廉潔白な身の上ではなくなっていた。
 性質の悪い事にその両方ともが、激情に任せての行動ではない。行動の発端と動機の一端に感情が含まれる事は否定しないが、行動そのものについては打算の産物だった。彼は冷静に非合法な手段を用いている。
 しかし、その脅迫するに当たり、技師の弱味を指摘した時点で、波留自身の中で言いようもない感情が渦巻いていた。
 その技師の弱味とは、久島部長暗殺未遂の実行犯――久島の脳核を初期化装置に掛けた張本人であると言う事実だったのだ。
 波留自身がそれを知ったのは、7月の事件の最中である。当然その時点で激怒していた。しかし、それを知った時点では未だに事件は収束していない。だからそれを押さえ込み、彼は親友の遺志を継いだ。
 そして事は収まった頃には、諦観と共に彼はその事実を受け容れた。何をどうやろうとも、久島は帰って来ない。僕がどうこう出来る問題でもない――そう結論付け、それ以上はその実行犯に関わろうとはしなかった。
 しかし、時を経てからいざ関わってみると、どうだったろう――?
 あの時、あの技師を脅す言葉を選んでいたのは事実である。こちらに対して怯んで貰わなければ、こちらの意志を押し通す事は出来ない。必要以上に恐怖して貰っても充分だった。そう信じて、会話を交わして行った。
 そんな打算と冷静さをを伴った会話のはずだった。
 それでも「あなたが久島部長の脳核を初期化した」――その言葉を用いたその瞬間、彼の中には凄まじい感情が勃発していた。
 ――何故、久島をあんな目に遭わせたこの男が、のうのうと暮らしている?
 僕は何故平然と会話を交わさなければならないのだ?
 評議会は、彼の罪を問わない決定を下した?僕がそれに付き合わなければならない義理が、何処にある?
 ――その手の感情が続々と心中から沸き上がってきた。彼はどうにかそれを押し込め、その技師を脅し付けるだけに留めた。結果的にそれが、過剰な恐怖を技師に与える事に成功したのかもしれない。
 あの感情を「殺意」と表現するならば、確かにその通りなのかもしれない。波留は今更ながら、そう思い至っていた。
 付け加えるならば、波留は、その「殺意」が殺意だけで終わってしまう程度の技量しか持ち合わせていない訳ではない。彼はその技師をハッキングしていた以上、容易く電脳を焼く事が可能だった。生殺与奪の権利は全て彼が握っていた訳である。
 他人の電脳に接続して、高圧電流をフィードバックする。それで人は確実に殺せる。生脳を直接攻撃するのだから、他の暗殺方法――銃やら刃物やら――よりも、更に確実だろう。そして電脳への接続は、無線接続が可能な地域ならば何時でも試行出来る。無論、相手の防壁などをキャンセルする必要はあるが、波留にはその技量は充分にある。
 人工島のような常時無線接続地域でありターゲットが電脳化しているならば、彼は「その行為」を何時でも試せる。そしてかなりの確率で成功させる事が出来るだろう。
 その現状は、正に「人を殺せる自覚がある」との指摘が相応しい。円はそれを言い当てていると、波留は認めざるを得なかった。
 そんな暗い感情が、僕の中にあるとこのジェニー・円は読み取ったのだろうか。
 だとしたら、今の僕の中にも僅かでも漂っていたのだろうか?今回、彼の前で語った事――10月のテロの捜査と、その容疑者がそれに当たる。
 ならば今回のテロについても、「容疑者」を捕捉したならば、果たして僕は電理研に引き渡すなどと言う面倒な手続きを踏むのだろうか。その自省は、今度も働くだろうか。
 彼は、その僕の危うさを指摘しているのだろうか?彼としては、仮に元部下が過ちを犯したにせよ、私的制裁を下されたくはないだろう――。
 波留が視界に入れているコップの水面には、彼の顔が映っている。水面は揺れているために不鮮明ではあるが、そこに投影されている彼の瞳の色は、何処か暗かった。
 そしてそれを眺めていると、彼自身、脳の何処かで何かが弾ける心地がする。彼の中では相変わらず僅かな頭痛が続いていた。
「――何にせよ、その力が私に向けられない事を祈りますよ」
 円の声が波留を現実へと引き戻す。そのホストの人物は、相変わらず静かな態度を保っていた。
 何故そんな事を言うのだろう。波留は微かな頭痛に苛まれつつも、疑問を抱く。
 しかし円は先に「私も疑われているのですか」と尋ねてきた相手である。波留が手段を選ばないなら、その火の粉が自分の方に降りかかって来ないとも限らないのではないか――そう思ってもおかしくはないのかもしれない。少なくとも、波留はそんな思考に至っていた。
 それでも波留は黙っていた。敢えて否定を続けても良かったのかもしれないが、その先の質問を受けた時に「疑ってはいない」と既に否定を返している。だからそれ以上重ねても、意味はない。
 何にせよ、波留はこの円に、残存した怒りとそれを振り撒く可能性を指摘された。それを自覚させられた事は、おそらく自分にとってはいい事なのだろうと思う。特に彼は、これから「容疑者」を、公権力を振りかざす事無く、私的に追い回すつもりなのだから。
 
[next][back]

[RD2ndS top] [RD top] [SITE top]