こうしてふたりの男によって白酒の1本が消費された。そしてホストは、やってきた自らの秘書に対し、追加を所望する。特にゲストから求められた訳ではないのだが、ホストとしてはもう少し酒を振る舞いたくなったらしい。
 その要望に秘書は無言で頷き、応じていた。静かに部屋を後にし、然程主人と客とを待たせる事無く新たな酒瓶をトレイに乗せて来訪する。笑顔は伴わないものの完璧かつ美しい作法で酒を出し以前の空瓶を回収し、彼女は再び退出して行った。
 強い香りを立てる透明な液体が、波留のコップに注がれる。彼は勧められるままにそれを口につけた。ボトルに貼られたラベルは先程の酒と同一である。それ故に同じ味が彼の口に広がった。しかし、現状の彼にはその味を感じ取る事も微妙である。
 先程の話題は、それ以上膨らむ事もない。波留不在の50年について円は自ら語ろうとはせず、波留自身も特に訊こうとはしていない。
 波留にとってはその50年は正に「不在」である。久島と共に過ごせなかっただけではない。そもそも50年を過ごした実感すら伴っていないのだから。彼にとってその50年は完全に消失した時間であり、2012年と2061年はそのまま地続きだったのだ。だから、どう尋ねていいのか判らないのもあった。
 そして問われない以上、円としても何も語らない。彼にとってはその50年はリアルであり、何ら特別な年月ではない。何処をどう語ればいいのか、指定されなければどうしようもない。取っ掛かりがない状況で自発的に何を語ればいいのか、どんな事を言えばこの客人は満足するのだろうか。深い付き合いがない人間を前にしては、それが判らないのだ。
 結果的に、新たに出された酒瓶を彼らは延々と消費し続けていた。当たり障りもない現状の話題を繰り返す。波留は9月以降の人工島の日常を口にし、円は同時期のこの村での出来事を語る。特に実のない会話が続いた。
「――それで、今回のテロの首謀者とおぼしき人間を特定したら、どうします?」
 その最中、円が不意にそんな問いを投げかけて来た。
「どうって…――」
 波留は口篭った。コップを手にしたまま、その底面をテーブルに着ける。開いた左手が、顎に触れた。酒が回ったのか、顔も掌も熱い。触れた肌同士がその感覚を増幅させてゆく。
 目を細めて、コップの水面を見やる。透明な液体の上には僅かな波紋が浮かび上がっていた。その真円の広がりを、波留は瞳に映し出してゆく。
「――…人工島に引き渡します」
 1分にも満たない沈黙の後、波留は俯いたまま短くそう答えていた。
 それは、先に円に語ったこの一件に対する基本方針を踏襲した返答である。自らの独断で捜査し「容疑者」と認定した段階で初めて人工島に連絡を入れる。それで自分の越権行為は終了である。その後は色々と責任を取らなければならないかもしれないが、それはまた別の話だろう。
 僅かな音を波留の耳が捉えた。視線のみを上げてみると、向かいの席に着いている円の唇が微かに動いていた。どうやら彼が溜息をついたらしい。
 その波留の視界の隅で、円がコップを煽る。全身義体の彼には酒も自らに合わせた種類を用意しなければならないはずだが、人間用の酒であっても多少は酔えてしまうものらしい。生体部品を用いた義体ならば、人間用の飲食物も少しは消化吸収出来るものだと、波留も知っていた。それは、気付いた時には義体となっていた親友との3ヶ月間の僅かな付き合いにおいて、学んだ事である。
 そして義体に味覚や嗅覚の機能が備わっているのならば、それらの感覚を得た脳が間接的に「酒に酔う」事もある。実際に食事を摂らなくとも、その他の情報の処理を経て脳が「食事をした」と錯覚してしまう事例もあるのだから。メタルが介在すれば尚更であると、波留が抱えた以前の案件が示している。
 円はコップを口から外し、瞼を伏せて一息ついた。そのままコップを自らの前に置く。空のコップはテーブルとの間に軽い音を立てた。
 その音に、波留はちらりとテーブルの上を見る。相手のコップが空になっている。そして彼の視線の先にあるボトルには、半ば程度液体がたゆたっている。ならば今度はこちらから勧めてみるべきか――そんな事を思った時だった。
「――あなたは、私のプラントをハッキングした」
 静かな声が波留に届いた。それに、波留は顔を上げる。軽く眼を開く。前髪が揺れ、彼の目許に掛かった。
 円は伏し目がちに言葉を重ねる。彼の手元では、空になったコップの縁を指先がなぞっていた。ガラス製のコップが擦れる微かな音が、ラジエーターの稼動音に混ざり込む。
「あれは、私が50年の歳月を費やして構築した、私の城です。だと言うのに、あなたは容易く攻略してしまった」
 円の声は淡々としている。その台詞に、不満めいたものを一切感じさせていない。あくまでも事実を述べたつもりらしい。
「違います。あの時には他のメタルダイバーの方の助けもありましたし、何よりあなたもソウタ君と戦いながら阻止を試みて来たではないですか。僕と違い、本職のメタルダイバーではないのに」
 慌てた風に、波留はそう反駁していた。若干腰を浮かせて向かいの席の人間に語り掛けて来ている。
 波留が指摘したように、あの7月末の強硬手段に関与したメタルダイバーは波留独りではない。ここで敢えて名前を出さなかったのは、その同席者に迷惑が掛からないようにしたかったからに過ぎない。何せ公的機構に対するハッキングである。これこそ不法行為でありテロの一種なのだから。
 更には、プラントへのハッキングを感知した円は、リアルではソウタと格闘しつつもそのハッキングに対するジャミングをリアルタイムで行使したのである。実質4対1であり、円の立場は正しく「テロリスト達に孤立無援で立ち向かった」と表現するに相応しいものだった。
 ともかく、波留にとってはあのハッキングは、全くもって「容易い」ものではなかった。そのハッキングの途中からは、何故か再起動した電理研サーバの演算能力すら投入すると言う物量作戦の末にようやく陥落させたのだから。彼にとってはあのプラントは難攻不落の――最終的には陥落したが――城だった。
「何にせよ、結果はあの通りです。あのプラントは私にとって圧倒的なホームのはずだった。誰にも邪魔出来ない環境を作り上げていたはずだった」
 それでも円の心は動かされていない様子である。淡々とした声は全くぶれて来ない。過程はどうあれ、結果としてはあのプラントは攻略されてしまった。彼の中ではその結果はあり得ない話だった。しかし、現実には目の前のメタルダイバーに完全に制圧され、データを掌握されてしまった――そう言いたいらしい。
「あなたは、世界に類を見ないメタルダイバーだ。その天賦の才能は、久島君の信頼を一身に受けるに相応しい」
 何処までも円は表現のハードルを上げてゆく。しかし褒め称えている当の相手に対して笑顔を見せてはいない。義体らしく感情に乏しい表情を選択している。
 だから波留は戸惑っている。自分に対する過剰な評価も居心地が悪いが、単純に高い評価を与えられているような状況でもなさそうだったからだ。彼にとっては、素直に喜べない。
 そこに、ラジエーターの稼動音に割り込み、ガラスが澄んだ音を立てた。円がコップの縁を指先で弾いたからだった。しかし彼はすぐにその縁を押さえる。それにより、ガラスの振動音は収まった。鈍く濁った印象を湛え、音がそこに留まる。
 円は瞼を伏せた。眉間には微かに皺が刻まれている。そして彼は静かに言った。
「――あなた…――御自分にも、人を殺せる自覚がおありでしょう?」
 
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