それからは淡々と杯を重ねている。円の現状説明は一段落している。そして波留は僅かに抱えた頭痛が気になるのか、自分から口を開こうとはしていなかった。
 酒は確かに旨いのだが、波留にはその味が曖昧になって来ている。彼は、時間を埋めるために酒を飲み続けている感覚に陥りつつあった。アルコール度数が高い酒なのだから、飲み過ぎてはそのうちに潰れてしまうだろうとは判っている。
 しかし彼は、そうなっても構わないとも思っていた。それだけこの家の住民達を信頼し、頼ろうとしているのかもしれない。端的に表現するならば、気を許して来ているのだろう。充分な寝床や旨い食事と酒を提供されたなら、人間は精神的にも落ち着くものだった。
「――あなたが提出したレポートは、私も拝見しています」
 そんな中、円からふと振られたその話に波留は一瞬対応出来なかった。
 ――彼が言う「レポート」とは、一体何だろう。波留は電理研からダイブの委託を始めて半年程度ではあるが、仕事の度に報告書を提出してはいる。では、果たしてどの報告書を指しているのだろう。
 或いは今までの報告書は電理研に提出している以上、仕事を委託してきた依頼者達に資料として閲覧されても全く構わない。円は依頼者との立場にある事も多いのだから、わざわざダイバーたる波留に改めてそれを表明する意味が良く判らない。
 波留の顔には若干赤味が射している。軽く酒が回りつつあるのが、外見からでも見て取れた。
 そんな彼が微かに首を傾げている。向かい側の円にもそれは窺えていて、自分の話が明快に伝わっていないのかと思った。だから、彼は補足を加える。
「7月末にあなたが敢行した超深海ダイブのレポートです」
「…ああ――」
 その台詞に、波留は納得が行ったような顔をした。大きく頷いてみせる。
 そのダイブについては、最中にメタルが停止して再起動した事に拠り、観測データは一切残されていない。だからダイバーたる波留がその心身に感じ取った事を口述し、ダイブの監視に携わった蒼井衛とミズホの夫婦がレポートと言う形に纏め上げていた。その後に部長代理の蒼井ソウタがレポートをチェックしている。
 後に波留当人もそのレポートを改めて閲覧したが、「よくもここまで明晰な論文に出来たものだ」と感嘆していた。と言うのも、ダイブの際に感じた曖昧な現象すらもどうにか論文と言う形式に仕立て上げていたからである。
 そもそも「海の深層に、悠久の時を経て地球が集めた知識が集積している」「そこで久島部長と再会した」などと言う「事実」などをどうやって、それを体験していない他者に信じさせればいいのか?――その挑戦を、あの夫婦はある程度のレベルにおいて見事やり遂げていた。個人的には眉に唾をつけつつ執筆したのかもしれないが、波留から伝え聞いた「事実」のみを文章と言う形にしてみせていた。
 波留は彼らに感謝していた。波留自身、自ら感じた事をそのまま伝えたのだ。それが「センサー」としての自らの役割として認識していたからである。だから、それを他者に編集されたくはなかった。
 しかし、内容が内容である。おそらくは電理研としては、一般公開したくはないレポートだろう。ましてや島外の人間が入手出来る訳も無い。
「閲覧の機会がおありでしたか?」
「私が人工島から退去する直前に、部長代理が見せてくれましてね」
 波留からの問いに、円はそう答えていた。その答えに波留は納得する。レポートが完成した時期を鑑みればぎりぎり間に合っただろう。
 そして円はあの事件に深く関わった人間である。彼は当時電理研と対立する立場であり、結果的にそれが誤りだったのだ。だとすれば、気持ちの整理のためにも「あの時何が起こったのか」と把握したくなるのも人情だろう。そして、事件中に円と様々な出来事があったソウタも、それを理解していたのだろう。だから便宜を図ったのだ――波留はそう考える。
「御本人を前にして申し上げるのも不躾ですが、私としてはあのレポートに書かれた事象は、正直信じ難い」
 円からの率直な意見に波留は苦笑した。あの報告を挙げるについて彼が危惧した反応そのものなのだが、そう思われても仕方のない「報告」なのだ。だから笑う他なかった。
 そして円当人も若干の笑みを浮かべていた。波留が気を害していない事に気付いたらしい。或いは、その程度の事で腹を立てる訳もないと当初から見透かしていたようだった。だから彼はそれに類する言葉を発する。
「ダイバーたるあなたとしては、体験した事全てをそのまま報告せざるを得なかったのでしょうがね」
 円の声を耳にしつつ、波留はコップを大きく煽る。小さなコップに半ばまで満たされていた透明な液体を一気に全て喉の奥に送り込んでいた。温度としては冷たいはずの液体が、暑く喉を通ってゆく。
 そのまま波留は、空になったコップをテーブルに置く。やけに高く澄んだ音がそこから響いた。それは当事者の彼にとっては予想外だったようで、身じろぎしてコップの底面を見やる。
 気が済んだ時点で、そのダイバーは視線を前へ向けた。科学者たる円に問い掛ける。
「――では、あなたは僕が体験した事を、どう解釈しますか?」
「深海5000m級へのダイブです。同時にダイブしていたメタルも停止しました。あれは、あなたの意識がメタルに解けて存在が曖昧になりつつあった頃に垣間見た夢であり、言わばあなたの願望でしょう」
「願望ですか」
 波留はその言葉を繰り返していた。顎に手を当て、俯く。
 ――本当に「願望」として片付ける事が出来れば、どれ程楽なのだろう?
 確かにあれが「現実」だとは、誰も証明してはくれない。あの時あの場で邂逅した久島が、本当に「久島当人」だったとは、果たして言い切れるのだろうか?
 僕自身が、そうなのだと信じたいだけなのかもしれない。自らを観測装置として割り切る事で、自らの中に僅かに存在するかもしれない疑念を、封じ込めたいのかもしれない。
 そして、本当にあれが現実だとすれば――僕は、彼と拳を合わせる事を――。
「――私も、久島君に会えるものなら」
 不意に放たれてきたその言葉が、波留を思惟から引き戻す。
 それは言い掛けたまま放置された台詞だったが、発した当人はそれ以降を続けるつもりがないようだった。波留が見やった頃には、彼は瞼を伏せて沈黙に至っている。一見して無表情ではあるが、それは義体の特性だろう。波留はその奥にある何かを感じ取っていた。
 波留は、視線を上に向けた。生脳に記憶していた円のプロファイルを手繰り寄せる。人工島黎明期から滞在し、電理研とは協力関係を築き上げて来ている。その過程に積み上げられたとおぼしきものを、彼は改めて尋ねた。
「あなたも、久島とは付き合いが長いのでしたか?」
「ええ。お互い義体化する前からですから、50年近くになりましたかな」
 円は瞼を伏せたまま、淡々と答えた。相変わらず、何気ない口調ではある。
「そうですか…」
 波留は頷いていた。しかし波留自身には、当時の円には面識はない。となると円は、あの人工島建設時の事故以降に久島と知り合ったのだろう。時系列に当て嵌めて単純計算してもそうなる。波留が事故に遭い深い眠りに就いた後に、入れ替わるようにこの円と出会った事になる。
 瞼を伏せて無表情に沈黙している向かい側の人形遣いを、波留はやはり沈黙して見つめていた。
 この彼が、久島の50年間を埋めてくれたのだろうか。
 自身がリアルに不在だったその50年間の久島の事を、波留は知らない。世の中に取り残されて50年を無為に浪費した自分にとってそれは辛い思い出ではあるし、それを察してか久島自身も語ろうとはしなかった。
 しかし、今思えば、早く訊いておくべきだったかもしれない。久島の口から訊く事が叶わなくなってしまった今となれば。
 その50年間を、このジェニー・円は知っている。この彼との付き合いが実のあるものであったなら、人工島を作り上げた久島の50年間は、プライベートにおいても空白ではなかったはずだ。公私共に充実していたはずだ。
 そして波留としては、それを望んでいる。自分のような空白を、親友には作っていて欲しくはなかった。久島は波留と違い、きちんとその時代を生きていたのだから。彼は彼で、人生を楽しんでおいて欲しかった。
 波留は自然に目を細めた。微笑を浮かべる。酔いのせいか呼気が熱くなっているままに、唇を開いた。
「あなたが、僕の代わりに久島を見守ってくれていたのですね。ありがとうございます」
 言いつつも波留は深く頭を下げていた。向かいの円に対して特別な態度を示す。
 それは彼にとって、素直な感謝の気持ちだった。自分が親友と付き合えなかったその50年間を、この目の前の人物が埋めてくれていたのだから――彼としてはそう思うのだ。
 波留がゆっくりと顔を上げた時には、円は両眼を開いていた。顔は相変わらず無表情ではあるが、瞳には僅かに意外そうなものが見え隠れしている。波留に感謝の言葉を述べられたのが余程意外だったらしい。
 それから円は僅かに口を開いた。何かを言い掛けた。
 しかし、唇の隙間から、声は出てこなかった。何かを言い淀んでいる。義体であっても多少は嗜んでいた酒の匂いが、呼気に乗って僅かに漂うが、向かいの波留には届かない。届いたにせよ、波留自身が放っている酒の香りには負けていただろう。
 その沈黙はほんの数秒だった。口篭った円は一旦その唇を閉じる。そしてすぐに、改めて口を開いた。今度はそのまま声が発せられてゆく。
「――…まあ、あなたがこうして若返って帰還したと言う事実を、現代の科学でどう辻褄を合わせればいいのかは、私には謎です。レポートを読むに、あなたを診た医師達も困っておられるようだ」
 結局、円はレポートに話題を戻していた。台詞の最後の方は冗談交じりのつもりだったのか、笑みを浮かべている。
 その笑みに波留も反応した。彼の側では苦笑の成分を添加して、笑いの雰囲気を深めてゆく。
 テーブルに置かれた酒のボトルに残された液体の量は僅かとなっている。円はそのボトルを手に取り、傾けて波留に向けた。
 その勧めに波留は相好を崩す。笑顔のままに、彼は自らのコップを差し出した。そこにボトルの口が当たり、傾けられたボトルから液体が注がれてゆく。
 注がれる液体の筋は徐々に細くなり、やがては大粒の液体へと変化していた。芳醇な香りが周辺に漂う。波留はそれを楽しそうに眺めていた。そして円は微笑み、そんな黒髪の青年を見やっている。
 
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