アルコール度数が高い酒を振る舞われているのだから、自然に会話の数が増えてくる。口当たりのいい味に任せて無言で杯を重ねていては、あっと言う間に酔い潰れるだろうからである。
 波留にはその自重が働いていた。或いは、会話を肴に飲みたいと言う気持ちも共存していた。それは在りし日の親友相手と似たような現象とも表現出来るかもしれないが、彼は現在会話している相手を「親友」程に理解していない。逆説的には、その理解を深めるためにも、会話を重ねたかった。
 どうやら波留自身の事は、この相手には知られているらしい。波留は2061年4月からは電理研委託メタルダイバーなのだから、円は人工島在住の当時にそのプロファイルを参照しているのだろうと推測がつく。何せ波留は気象分子協会の仕事を行った事もあるのだ。
 その観測実験は、波留は電理研から委託して行ったために、元請の気象分子協会をあまり意識はしていなかった。しかし重要な実験を任せる以上、気象分子協会にも参加ダイバーの素性はある程度明らかにされていたはずだった。そして円は協会長であり気象分子研究を推し進めていた第一人者であった以上、実験の全てを把握していなければおかしいだろう。
 しかし、波留は円の事をあまり知らないと思っている。彼とて無策ではない。あの7月末の騒動の際に「交渉相手」と位置付けた以上、プロファイル程度の事は調べている。今回の訪問に合わせても、更に調査は行っていた。
 が、データとして入手出来る以上の事は知らない。それ以上を知るためには、直に会話を重ねる他はない。無論、それ以上を相手が開示してくれるかは謎である。しかし会話の癖や雰囲気と言った、とても曖昧な感覚を共有する行為を無駄だとは思えなかった。
 ジェニー・円と言う人物は、そもそも中国大陸の南部の出身である。大陸全土を巻き込む戦争状態を上手く切り抜け、今尚発展を続ける豊かな地域が地盤であり、財産の多くもそこに所有している。
 戦争の勃発に拠り、中国のみがアジア地域で唯一人工島建設に参加していない。しかしそれは国家単位での話であり、個人としての中国人は多数建設に携わっていた。研究者のみならず、名も無き建設作業員も大量に流入したのだから、垣根は相当に低い。
 円の専門は分子研究である。当初は人工島にて環境分子のノウハウを学び、それを発展させて気象分子論を構築するに至っていた。
 しかし、あの事件でそれは全て頓挫した。
 そうなってしまった彼は、中国大陸への帰路に着いた。人工島在留許可を剥奪されてしまえば、そうする他はない。「失意の帰郷」と表現してしまえば、それまでである。実際に、有り触れたその表現を用いたメディアは世界各国に存在している。
 が、興味本位で書き立てるようなメディアには全く把握されていなかった事ではあるが、円は故郷の南部ではなく、荒廃した北部にその身を置いたのだ。
 その荒れ果てた大地は、戦争の傷痕が深い。更には地球温暖化の影響に拠り、何十年単位で旱魃が進んでいた。不毛の地の再開発を、彼の新たな目標としたのだ。そのサンプルとしてまず選ばれたのが、現在逗留しているこの小村だった。
 大地を開墾し、土壌改良を行う。その畑には少雨に強い品種を植える。地盤調査を行い、地下水の分布を調査する。いずれ来たる冬に向けて、寒さに強い作物を試行するつもりでもある。或いはビニールハウスなどを用いて、ある程度の気温を保てる環境を作り上げる――試すべき事はいくらでもあった。それも、人々が慎ましく生きていけるだけの環境を、この地に構築したいがためだった。
 苦難の道ではある。彼もそれは痛い程理解している。しかし、計画を開始して2ヶ月足らずのうちに、ささやかな収穫は得られている。このまま進めて行けば、数年のうちに纏まった成果は得られるだろうと思われた。
 もしこの村が成功すれば、ここをモデルケースとして周辺へと伝播してゆく。その範囲が徐々に広まってゆけば、この地域の人々に生活の基盤が出来上がる。貧しいから、現状では生きていけないから、人々は争うのだ。その飢餓を埋めてやる事が出来たならば、どうして敢えて危険な行為を犯すだろう――?
「――私が申し上げたこれが、理想論だとは判っています。しかし、科学者が理想を追い求めなくてどうします」
 円は微笑を浮かべ、穏やかにそう言った。しかしその柔らかな言説の奥からは、確固たる意志が見え隠れしている。
 そして波留はその心情に同意していた。現実を見据えるのは、科学者ではなく政治家の仕事である。そして政治家がこの地域を見捨てると言う「現実」を選択してしまっている以上、科学者が理想を掲げて開発して何が悪いのだろう。社会の発展とは、全て理想から始まっているのだ。
 ――その理想が、現実を悪化させないならば。
 ふと、その前提が波留の脳裏によぎる。
 波留は眉を寄せた。どうしてそんな事を思ったのだろう。確かにこの目の前の「科学者」には、前科が無い訳ではない。しかし、そこから学ぶ事が出来るからこそ、優秀な科学者なのだ。大体、外部の人間が眺めた限りでは、現在のこの村の状況は好転しているのに――。
「私が生きてゆけるうちは、この事業に全てを捧げるつもりです」
 円の声は相変わらず淡々としている。彼が使う義体自体が、あまり感情を表さないような設定になっているのかもしれない。彼はその義体の口に、酒が入ったコップを運ぶ。どうやら通常の人間用の酒であっても、多少は飲めるらしい。
 全身義体である以上、彼にはある程度のメンテナンスが必要である。それについては、定期的に近辺の都市に出向く事で対処している。いざとなれば、北京まで足を伸ばせば大抵の問題には対応が可能である。そして本当にどうしようもないならば故郷の南部の大都市に戻ればいいだけの話だった。仮にそうなってしまえば、その時が彼の引退だろう。
 そして、メタルに接続出来ない環境で運用するために、彼は義体の出力を制限していた。
 大きな声では言えないが、彼は軍用義体を用いている。認可申請を通過している以上は合法ではあるが、一般人が使うような義体ではない。しかし現在の環境とそれに合わせた設定では、その軍用として求められるスペックの殆どを使用出来ていない。それでも通常の成人男性並の身体性能を有したままなのだから、何ら不都合はなかった。
 そう言った円の身の上話を、波留は静かに訊いている。円は弱みにもなり得る情報を波留に対して開示してくれている。客人に対してある程度の気を許しているのは確かなのだろう。
 波留は時折コップを傾けながら、微かに眉を寄せていた。何処か、頭の奥で痛みが走る。秘書が先の車内で説明したように、通信分子と電脳内のナノマシンが干渉し合っているのだろうか――?しかし、この村には通信分子は全く存在しないはずではなかったろうか――。
 ならば、疲れからの頭痛だろうか。早く休んだ方がいいのかもしれない。彼は円の話を訊きつつ、頭の隅ではそんな事を考えていた。
 
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